13
あれからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
とても長くも感じるし、仲間と離れたのがつい先程のような気もする。
ただ、自分が肩に負った傷は徐々に痛みも薄れ、傷跡も綺麗になっていく。
ときおりユリアが連れてくる、初老の博士の治療の賜物だろう。
何度かやって来て、その肩を見て頷き、帰っていく。
先程も博士は、同じように彼女を診察し、何かの薬を注射していった。
薬の作用なのだろうか、いつもと同じように頷いて部屋の外に出ていく博士を見送ってから、自分はいつのまにか眠ってしまったようだった。
そのためか、目覚めた時には、 いつもぴたりと張り付いて監視の目を緩めないユリアも、部屋の中にはいないようだった。
ベッドに寄り掛かったまま、窓の外を見る。
明るい色の羽を持った小鳥が飛び交う。一羽、二羽……。
ぼんやりとそれを見つめていた。
色とりどりの花も、大きな樹も今の彼女にとっては、ただそこにあるというだけだった。
これから……どうなるのだろう。
あの日以来、ゼルの姿は見ていない。
傷が治るまでは現れないつもりなのだろうか。
それとも……。
フランソワーズは小さく息をついた後、ゆっくりとベッドから降りる。
裸足の左の足首にはめられた枷から伸びる銀色の鎖が、しゃらしゃらと音を立てた。
その先は床に固定されている。
部屋の中を、十分に歩き回れる程の長さの鎖。
細い、装飾的ですらある鎖なのに、彼女の力ではどうすることもできないほど頑丈だった。
そして思っていたよりも、ずっと軽い。
武器になるな……、と考えて頭を振った。
今までのことから、 ゼルの力にこの細い鎖だけで対抗することは難しく思えた。
何かには使えるかもしれない。そう、自分のために……。
しかし、今はそれを考えるときではなかった。
もう一つ、ため息をつく。
その鎖を引きずって、大きな窓に近づいた。
緑色を帯びた木漏れ日が彼女にふりかかる。
窓のガラス越しに、その奥をじっと見つめ、耳を凝らす。
どんな小さなものも、どんな音も逃さないように。
最初にここで目覚めてから、何度も繰り返した行為だった。
そして、やはり何度も同じように落胆する。
彼女の目には、その森の奥の壁から先が映ることはなかった。
小鳥のさえずりや、樹のざわめき以外の音を、聞き取ることもできなかった。
ましてや、たった一つしかない扉の外の様子など、何一つ分からない。
小さく鍵のはずれる音がした。とっさに振り返る。
すぐに軽いノックの音。
返事を返すよりも先に扉が開いた。
そこには、背筋を伸ばして立つユリアがいた。
「お目覚めでいらっしゃいましたか?失礼致しました」
ユリアが軽く頭を下げ、一歩部屋の中に入った。
外には複数の人間の気配がする。
目と耳で探りながら、彼女は身を堅くした。
だが、扉がユリアの背中で閉まっていく。
開いたときと同じように小さな音がして、扉は完全に閉められた。
もう、先程の気配を探ることなどできなかった。
やはり完全に遮断されているようだ。
ユリアがつかつかと、彼女の所まで近づいてくる。
「お加減はいかがでしょうか」
「……ありがとう。……大丈夫です」
ユリアがふと顔を上げて、彼女をまっすぐに見た。
彼女から、ユリアに対して返答が返ってきたのは初めてだった。
「よかった。……ゼルさまも喜ばれますわ。ずっと心配されていらっしゃいましたの」
「自分で撃ったくせに?」
フランソワーズは強い瞳で、ユリアを見据える。
「それは、あなたの罪ですわ。ゼルさまに撃たせたのはあなた自身。契約を破って仲間の元に戻ったあなたの罪、そしてその罰」
ユリアは表情一つ変えずに、そう言った。
「……」
彼女は、窓の外に視線を戻す。
「みんなは?ベルリネールさんは?船は?」
「今頃、ゼルさま直属の精鋭部隊が、00ナンバーに対して攻撃を仕掛けている頃でしょうね。船は……無事です。それぞれがそれぞれの生活に戻った頃でしょう。それがあなたとの約束」
フランソワーズが眉をひそめる。
ユリアの言葉がどれだけ信じられるかは分からない。ただ……。
船が無事だと言うことだけは信じられるような気がした。乗っていた客たちも、怖い思いをしても、今が無事ならそれでいい。
お兄ちゃん、どうか……無事でいて。
ああ、ベルリネールさんは?仲間は無事だろうか。
遠くに想いをはせるフランソワーズの肩に、ユリアが手を置いた。
一瞬だがびくりと体が震えた。
ユリアはそれにはなんの反応も示さす、そっと体の向きを変えさせるとその手を引く。
「あなたはここから出ないと、ゼルさまと約束されました。その約束はお忘れなきよう」
彼女が息を呑む。
「お支度をさせていただきます」
14
「フランソワーズは?」
ゼルは、近くに控えた博士に問いかけた。
「大分よろしいようですが、まだ完全ではありません。傷跡は整形しましたが、まだ少し痛みがあるようです」
初老の博士は躊躇いがちに報告する。
「思いの外、傷が深かったので……。痛みはじきに治まるよう、薬を投与しておきました」
「まあ、いい。ひきつづき治療を続けろ。今日は、私がこの目で様子を見に行く」
ゼルはちらりと博士を見て、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
博士はあわてて、頭を下げた。だが、どこか安堵しているようだった。
「もうユリアには伝えてある。そろそろ支度が整った頃だろう」
唇の端を上げて、にやりと笑う。
「フランソワーズが、どんな顔で私を迎えるのか見物だな」
15
「ゼルさまがいらっしゃいました」
若い女の声がして、さらに小さくノックの音。
彼女の心臓が跳ね上がった。
髪を丁寧に梳かれ、化粧も施されて、部屋に据え付けられたソファの脇に立っていた。
ゼルのために飾られるのは不愉快だったが、今は我慢するしかない。
いつかチャンスがくるはずだから。
ユリアが厳かに扉を開ける。
ふわりと長い黒髪をまとわせて、その入口にゼルが立った。
彼女の姿を認めて、小さく笑う。
そして、彼女を見つめる黒い瞳。
「もう、ずいぶんいいようだな」
静かな声と共に、ゼルはゆっくりと彼女の方へ向かった。
その後ろで、ユリアが部屋の外に滑り出して行く。
彼女の耳に聞こえるか聞こえないかの音を立てて、扉が閉まった。
「扉の外が気になるか?」
「……」
ゼルが、ちらりと扉に視線をやる。
「残念だが、外からユリアが鍵を掛けている。ああ……お前には逃げる気はないのだったな。私と契約を交わしたのだから」
また小さく笑うと、彼女の脇をすり抜け、大きな窓に向かう。
その足取りには、迷いがない。
「まだ肩が痛むのだろう。座っていろ」
「……もう、痛まないわ」
ゼルは振り返った。
「意地をはっても無駄だ。お前の様子は博士から逐一報告が入っている。まだ動かない方がお前のためだ。安心しろ、傷ついた者に手出しはしない」
にやりと笑う。
「……っ」
フランソワーズは、ふいと目を逸らした。ゼルの言葉に従う気はない。
それを面白そうに見やって、ゼルは窓枠に手を掛けた。
「お前はもう、ここから出ることは許されない。……時間はたくさんある」
彼女は答えなかった。
ゼルの黒く長い髪が揺れる。
すっと音も立てずに窓が開いた。
天井から床までガラスで出来た大きな窓が、外側に向けて開かれる。その窓をゼルの手が押さえていた。
どきりとした。自分がどうやっても、びくともしなかった窓だ。
こんなにもの力の差があるのかと、改めて気付かされた思いがする。
「……今までおとなしくしていたようだからな。来い」
ゼルが片手を差し出す。
ふわりと、緑の湿気を帯びた風が彼女を取り巻いた。
ふいに、懐かしさを感じる。
ここでは感じることのできなかった、生きた風。
彼女は大きく息を吸うと、ゼルの手を取ることなく窓枠に近付いた。
何日かぶりで、外の空気に触れた気がした。
ゼルはそんな彼女の姿を見て、また小さく笑う。
「強情なことだ。一体それがいつまで続けられるのか……」
そうつぶやくと、素早く彼女の腕を引き、自分の腕の中に抱き寄せる。
「……いや!」
彼女が小さく抗うと、ゼルの腕に力がこもった。
「今のお前など、いつでも奪える……。私の気が変わらないうちに、おとなしくしておくことだな。お前には、私から逃げる力はない」
黒い瞳が、彼女をまっすぐに見ていた。怖いほどの強い視線。そして彼女を押さえる力に、動くこともできない。
彼女はどこかに視線を逸らす間もなく、唇を奪われた。
「……っ」
その一方的な口づけ。
彼女は眉をひそめながらも、毅然と相手を見据えた。
こんな状況でも、なにもできない自分が悔しかった。
思いきり突き飛ばし、もがいても、ゼルの力には到底敵わない。
その分だけ、ゼルの腕が強く自分を抱きしめているような気がする。
そして、熱を帯びた唇も……。
渾身の力を込めて、ゼルを自分から離した。
「さわらないで!」
荒い息の下、そう言った途端、力が抜け、その場にうずくまりそうになる。
「ほら、もう力が入っていない……。だから言っただろう?」
からかいを含んだ声で言うと、ゼルが彼女を軽々と抱き上げる。
そのまま、ベッドの上へと放り上げた。
一度はバランスを失ったフランソワーズも、すぐに体を起こし、身を堅くしてゼルを見据えた。
そのゼルは、ベッドの端に座って彼女の方に体を向ける。
じっと彼女の瞳を見つめていた。
彼女には、動くことすらできなかった。
視線は彼女から離さないまま、ゼルの指先がそっと彼女のあごに触れる。
彼女は、とっさに身を引いた。
それを咎めるように、ゼルは肩を掴むと、そのまま彼女をベッドに押しつけた。
彼女の体に緊張が走る。
だが、なすすべもなく、そのままの姿勢でゼルを睨んだ。
ゼルが笑う。
「傷が痛むだろう?……無理はしないことだ。せめて、私に抵抗できるくらいに回復するまではな」
(……ジョー……!)
「……それとも。……もう、覚悟は出来ているというのか?」
からかうように上から彼女をのぞき込むゼルの髪が、まるで黒いベールのように彼女を外界から閉ざした。
そのゼルの香りだけが、彼女の世界になる。
吐息を感じるほど間近に浮かぶ、ゼルの白い顔。
押さえられたままの肩が痛んだ。
「あいつと私を、比べてみるか?」
その頬を寄せ、耳元で囁く。
きつく引き結んだ桜色のつややかな唇が、ゼルを刺激する。
そっと親指でなどった。
フランソワーズが、ゼルの下で身じろぎする。
だが、どんなに力を込めてもゼルの戒めをふりほどくことができない。
心臓だけが、大きく速く打っていた。
ゼルの唇がフランソワーズの唇に軽く触れる。
彼女はしっかりとゼルを見据えたままだ。
(お願い、ジョー。私に力を貸して……)
このまま、何もできずにいるのだけは、いやだ。
約束したもの、あなたの元に帰るって。
だから……お願い、私に力を貸して。
負けまいとするように、決して視線を外さない。
ゼルは、それをおもしろそうに見やってから、ゆっくりと体を離した。
「言っただろう?今のお前には何もしないと」
口の端で笑う。
ゼルはそのままベッドから降りた。
そして、乱れて広がった亜麻色の髪を一房取り上げると、唇を寄せる。
フランソワーズは動かなかった。
扉に向かったのだろう、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。
小さく音がして、扉の外に出ていったのが分かった。
彼女はただ一人、そこに残される。
自分の情けなさに、嗚咽がこみ上げてきた。
涙が頬を伝う。
ベッドに伏したまま、声を押し殺して泣いた。
それを、誰にも知られたくはなかった。
16
なんの手がかりも得られないまま、彼らは一時的に研究所に戻った。
誰の顔にも疲労の色が濃く、ため息ばかりが聞こえている。
この広い地球の上の、どこにでも彼女のいる可能性はあった。
ゼルがそう簡単にその居所が知れるようなことはしているわけもない。
ジョーは親指を噛んだ。
(フランソワーズ……。どうか無事でいて……)
時間だけが、無駄に過ぎていく気がする。
「……ちくしょう」
誰かがつぶやいた。
「……イワンに、なんとか起きてもらうしかないアルか?」
張々湖の言葉に、全員の目が集中した。
「イワンに頼るしかないってことか……すまん……ジョー、俺がそばにいながら…」
意気消沈したグレートが、うなだれていた。
「馬鹿!誰かのせいじゃないだろ」
ジェットが叩き付けるように、怒りの声をあげる。
苛立ちは、最高潮に達しているようだ。
「全員で、フランソワーズを守るって決めていた。誰も口にはしなかったけど、そう思っていただろ!?違うのか!?」
一瞬、その場が静まった。誰もが同じように思っていたはずだ。
ジェットに改めて聞かれるまでもなく、その思いは同じだったはずだ。
あの時から。
「ジェットの言う通りだ。あそこに誰が一緒にいたとしても、ゼルの思惑通りに動かないわけには行かなかったよ」
ピュンマも静かに同意した。
「……みんな……」
「グレート……。君のせいなんかじゃない。誰のせいでもないんだ。フランソワーズが生きてさえいてくれたら……。生きてここに帰って来てくれれば……」
ジョーには、それしか言えなかった。
「イワンの夜の時間は、後どれだけだ?」
今まで沈黙していた、ハインリヒが聴く。
「……あと約1週間」
その隣にいたジェロニモが答えた。
後は、イワンに任せるしかないのだろうか……。自分たちにはもう、できることは何もないのだろうか。
全員の心を不安が占めた。
だが、フランソワーズの状態が分からない今、どうすることもできなかった。
彼は苛立つ仲間を残して自分の部屋に戻る。
一人になりたかった。
どうして僕は、彼女の側にいなかったのだろう。
分かっていたのに。
ゼルがフランソワーズを狙っていたこと……。
ただ、これほどまでに固執しているとは、想像もしていなかった。
それが油断につながったのだと思う。
最初から標的にしていた、ベルリネール氏を自分たちが奪い返しても、見向きもせずに彼女を連れ去った。
まさか、それほどまでにフランソワーズを欲しているとは……。
ゼルの目的はいったい何なんだ。
彼女に、僕に何を望んでいる?
怪我をしていた……。
白い肌が赤い血で染まっていた、痛々しい右肩。
グレートの話では、契約違反の罰だと、そう言って彼女の細い肩を打ち抜いたのだという。
契約違反の罰?
フランソワーズを、ゼルの元からさらって来たのは僕なのに。
フランソワーズは僕たちを助けようと、ゼルと契約を結んでゼルの言葉を守っていた。
それを台無しにしたのは、全部僕なのに。
どうして、フランソワーズがそんな目にあわなければならないんだ。
全部、僕が悪いのに。
僕のせいでフランソワーズが……。
ごめん。
何よりも誰よりも大切な君を、どんなことからも守るって、そう決めていたのに。
この前だって守りきれなくて……。
だから、今度こそ君の手を離したりしないって、ずっと思っていたのに。
僕は、僕が嫌いだ。
吐き気がするほどに。
どうして僕は、もう少し早く、ラウンジに駆けつけなかった?
目の前でゼルに連れ去られる前に、取り戻すことができなかった?
ぎゅっと握りしめていた、手のひらを開く。
銀色に輝く小さな輪。
ジャンの手を通じて、僕のところに帰ってきたこれ。
今、君の居場所を知ることもできない情けない僕は、君の側にいる資格を失ったのかもしれない。
君がいなければ、僕は人間でいられないのに。
喉の奥が熱くなって、視界がぼやけた。
ああ……。
そうだ。いいんだ、今は人間でなくていい。人間でいられなくていい。
僕は人間じゃない。
『009』でいい。
それで、彼女がここに帰ってくるのなら。
フランソワーズが取り戻せるのなら。
君は怒るかもしれないけど、僕は君を取り戻すためならどんなことだってしてみせる。
彼は大きく一つ息を吸った。
目を閉じて、彼女を思い出してみる。
共に闘う強い瞳の彼女。
ゼルに連れさらわれた血に汚れた姿。
そして、いつも穏やかに笑う、優しい彼女の姿。
静かに息を吐いて目を開けたとき、そこには戦いに臨む、冷徹な瞳のサイボーグ009がいた。
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