9
「ジョー!追うぞ!今、ドルフィン号がこっちにむかってる。ジョー!?」
ジョーは俯いたまま、その場に立ち尽くしてていた。
一度ならず、二度までもフランソワーズをゼルに奪われた。
─── 自分の目の前で。
必ず守ると誓っていたのに……。
僕は、馬鹿だ。
一体、今まで何をしていたんだろう。
ゼルが彼女を狙っていることは、わかっていたのに……!
ゼルは今度こそ……!
そして、あの時聞こえた言葉。
……あの、約束……。そんなこと、できるはずがないじゃないか。
フランソワーズ!
自分の情けなさに、体中の力が抜けていくよう気がした。
何も聞こえなかった。何も感じられなかった。
彼女を奪われた事実だけが、彼を打ちのめす。
ふいに、ただ床に向けていた視線の先に影が落ちた。
何かを考える間もなく、気づいたときには頬をめがけて拳が飛んでくる。
大きな衝撃に、一瞬体がふらついて、たたらを踏む。
「しっかりしろ!この馬鹿野郎っ!」
彼の前には、ハインリヒが立っていた。
「フランソワーズが、ゼルのヤツに連れ去られたんだぞ、それをわかってるのか!?お前が行かないのなら俺が行く。お前はここで待ってろ!いつまででも、ここで後悔していればいい」
「お、おい、ハインリヒ」
ジェットが、ハインリヒの腕を引いた。だが、ハインリヒも動かない。
「お前は、本当にそれでいいんだな!?」
彼の目が、ゆっくりとそのハインリヒを見つめた。
しっかりと、仲間の姿を認めると、今度は、急速にすべての感覚が戻って来る。
一度まばたきをした。まるでやっと目が覚めたように。
「……ダメだ。僕が行く」
今度はしっかりと、ハインリヒの目を見ていた。
絞り出すような、かすれた声で呟くジョーを見て、仲間はほっと息をつく。
彼も息を吐き出す。これまで、息をするのさえも忘れていたような気がする。
そしてようやく、彼は握りしめていた手を広げることができた。
爪の食い込んだ手のひらに小さく痛みを感じて、彼は苦い思いを飲み込んだ。
一番つらいのは彼女なのだから……。
早く僕が迎えにいかなければ。
「……ありがとう、ハインリヒ。……みんな」
「お前が、こんな所でぼうっとしててどうするんだ。しっかりしてくれ」
「そうだ。まだあきらめるのは早い。行くぞ、ジョー!」
彼は頷くと、一歩を踏み出した。
その時、その腕を遠慮がちに掴む者がいた。
反射的に振り払いそうになりながら視線を向けると、そこには彼女の兄がいた。
俯き、力を失ったジャンの姿は痛々しいほどで、それがなによりも彼の胸を締め付けた。
こんな場面は、ジャンにだけは見せたくなかった。
「……妹を……頼む」
小さな声で、それだけを言う。
そして、そっと 彼の手を取り、その手のひらに小さな銀色の輪を乗せた。
ジャンの手元に来た時には彼女の血に染まっていた、花をかたどったそれも、今は綺麗に拭われて銀色の輝きを取り戻していた。
「俺には……。もうあいつを守ってやれないから。だから……お前に頼む」
彼は小さく頷き、手のひらの中のものをしっかりと握りこんだ。
彼女は絶対に待っていてくれる。
僕が行かなくては。
あの約束を果たさないために。
ジャンはその手を離すと、妹の仲間達にすべてを託した。
もう、自分にできることはなにもない。
唯一できることは祈りを込めて、彼らの逞しい背中を見送ることだけだった。
10
「おかえりなさいませ」
ヘリから降りたゼルは満足気な笑みで、その言葉を受けた。
「ユリア、部屋は」
「整えてございます」
腕に抱いたままの彼女を、ちらりと見た。
「先に治療だな。博士たちを集めておけ。必ず元通りにと伝えろ。余計なことはしなくていい。やつらはやたらと余分な機能をつけたがる……。お前がすべての管理をしろ」
「承知いたしました」
「……やっと、おもしろくなってきたところだ」
ゼルは、彼女の蒼い頬にそっと唇を寄せた。
11
ずきんと肩が痛んで、彼女は目覚めた。
ゆっくりとあたりを見回すと、そこは見覚えのない豪華な部屋だった。
自分が横になっている大きなベッド。きらめくシャンデリア。
窓にも装飾が施されていて、その装飾が巧みに窓が大きく開くのを妨げている。
そうか……と思う。自分は、ゼルに連れてこられたのだった。
染み一つない高い天井を、ぼんやりと見上げる。
(……私、生きてるんだわ……)
ふと、そう思う。
すると、今度は 急に頭の中がはっきりとして来た。
肩の傷も手当がされているが、まだ痛みだけは仕方がないらしい。
少しだけ体を動かしてみた。肩をのぞけば、後は支障なく動くようだ。
ふと違和感を感じて探ると、左足が飾りたてられた枷と長さのある鎖で床に繋がれていた。
もう一度、まわりを確認する。
立派で手入れが行き届いた部屋だが、ガラスなどの凶器にできそうな素材のものは、一切置いていないようだった。
出入口は一つ。重たそうな、大きなドアがそれだ。
その前の小さな椅子に、一人の女性が座っていた。
(あれは……)
見覚えのある美しい女性だった。
(……あの時の人だわ。ゼルといつも一緒にいた……。たしか、ユリアと)
ぼんやりと考えた。
どうやらしばらくの間、その女性を見つめていたらしい。
「お目覚めですか?」
それに気づいたユリアが、立ち上がってこちらに声をかけた。
「まだ、無理はなさらないで。ゼルさまがおっしゃっていましたわ。まだ、麻酔が残っているからと……」
ユリアは艶やかに笑った。
彼女は何も言わなかった。ただユリアの瞳を見つめる。
ユリアのその瞳には、彼女に対する哀れみも、羨望も、蔑みすらなく、なにも読みとることができなかった。
彼女は小さく息をついた。
ユリアは、それも気にしている風ではなかった。
「このカーテンだけでも開けておきましょう。せめて、窓の外が見えるように……」
ユリアが、ゆっくりとその重たいカーテンを開ける。
そこに現れたのは、大きな木々や草などの緑が溢れ、色とりどりの花が咲く美しい庭園だった。
木漏れ日が輝き、その合間を小鳥達が羽ばたいていた。小川の流れが小さな音をたて、そのまわりに
はさりげなく野の花も顔をのぞかせている。まるで、森をそのまま切り取ったようだった。
明るく強い光が部屋の中に差し込む。眩しさに思わず目を細めた。
(まるで……篭の鳥ね)
そのまま目を閉じる。
最後に見た仲間の、彼の姿を思い出していた。
彼は、いつかした約束のことを、覚えているだろうか。
フランソワーズは、小さく頭を振った。
(だめ、弱気になっていちゃ。もう一つ約束したじゃない。私自身が精一杯闘うって……)
「ご気分はいかがですか?」
いつのまにか、側に来ていたユリアに、そっときかれる。
「傷は痛みますか?博士達の話ではもう1、2日で痛みもひくとのことでしたけれど」
フランソワーズは何も答えなかった。
ユリアは別段気を悪くした様子もなく、彼女の様子を確認する。
「……では、もう少しお休みください」
ゼルに報告に行くのだろうか、音もなく重たいドアを開けて出ていった。
鍵をかける音がして、後には何も残らない。
しんとした部屋の中、窓の外から小さく鳥の声が聞こえた。
ここはどこなのだろう。みんなは、船は無事なのだろうか。
先に捕らわれていたベルリネール氏は……。
悪い考えばかりが脳裏に浮かぶ。そして、それを振り払うように、目を使ってあたりをよく見た。
何かをしていないではいられない。
見落とさないように、注意深く、見る。
そうしてから、もう一度深いため息をついた。
やはり自分のための部屋なのだろう。
窓の外の庭園の先は、見通すことはできなかった。
12
「くそっ」
「どこなんだ、フランソワーズは……!」
先に飛び立ったヘリを追って、ドルフィン号は海中にいた。
彼らが追っていることを想定してか、複数のヘリがてんでばらばらの方向に向かっていく。
それに踊らされて、時間だけが刻々と過ぎていった。
すでに、ゼルと彼女を乗せた機は、自分たちでは追いきれないところまで行っていると思われた。
イワンが起きていれば……。彼女の能力があれば……。
どうしようもないことばかりが、彼らの心を占めた。
「このまま手をこまねいて、イワンが起きるのを待つしかないのかっ!」
ジェットが拳を握りしめたまま、吐き捨てるように言った。
「結局、オレたちが追ったどの機もハズレだ!フランソワーズがどこに連れて行かれたのか、わからねえ……っ」
「こうしている間にだって彼女は……」
「……怪我だって負っている」
仲間の焦りが、一気に吹き出していた。
誰もがゼルに対しての、ぶつけようのない怒りと不安を隠さなかった。
その中でもただ一人、ジョーは操縦桿を離すことなく、前を見据えている。
果たして、仲間の言葉が聞こえているのか、いないのか。
「……ジョー」
傍らに立ったピュンマが、そっとその肩に手を置いた。
「ジョー、今は焦ってはダメだ。その……僕だってフランソワーズのことは心配だ。いても立ってもいられなくなる。君の気持ちも少しは分かるつもりだ。……だけど、君が落ち着いていてくれないと」
彼は少し振り返って、そちらを見た。
「わかってるピュンマ。……ありがとう」
思ったよりも彼は落ち着いていたが、ピュンマは眉をひそめた。
状況が状況なだけに、今の彼にリーダーとしての役割を要求するのは残酷だと思う。
だが。
今までもずっと、どんな状況でも彼はその役目を忘れたことはなかった。
きっとこれからもだ。
そしてそれを補いあうのが自分たちなのだと、そう思っていた。
ジョーの前方だけを見つめている瞳には、今は何も映っていない。
時折、ちらりと苦しみが浮かぶのが見て取れた。
その度に、何も吐き出さない彼のことが心配になる。
「……君は休んだ方がいい。ジョー。今後のためにも」
彼は何も言わなかった。
ピュンマは、今ここで一番冷静でいられるのは、自分とジェロニモだと自負していた。
いつもは皮肉なまでに冷静なハインリヒですら、彼女の身に起こるだろう事に対して怒りを露わにしている。珍しいことだなと、頭のどこかで考えていた。
そして……。
フランソワーズの危機に、やけに冷静な自分を見つけて心の中で苦笑する。
心配なのは、他の仲間たちと変わりはない。
ジョーがどれだけ彼女を大切にしてきたかも知っているだけに、彼の衝撃ははかりしれない。
ましてや、2度目だ。
ジョーがどれだけ自分を責めているのか、痛いほど分かった。
それだけに誰よりも気持ちが張りつめ、それを自覚して、努めて冷静になろうとしている。
それが、すでにいつもの彼ではなかった。
いくら強靭な体と精神力の持ち主だとしても、このままでは彼の方が先に疲れてしまう。
それは避けなければならなかった。009としても、彼女の恋人としても。
今の自分たちには、この状況を見極める目が必要だとそう感じていた。
現在、それが出来るのは自分とジェロニモしかいないだろう。
いつもなら、こんな時には、穏やかに彼らを諫める彼女もここにはいない。
ニヒルな口調でブレーキをかけるハインリヒも、自然と身に付いたその役割を手放している。
そしてそのハインリヒの隣には、静かな表情のジェロニモが立っていた。
みんなの感情の嵐が収まるのを、じっと待っているかのように。
他の仲間たちは、普段から感情の起伏も激しい方だ。もうしばらくは、怒りが抑えきれないだろう。
イワンは眠ったまま。
ギルモア博士は、ただ力無くうなだれていた。せめて、イワンが起きていてくれれば……。
頭を一つ振る。
ちがう……ゼルは計算していたんだ。イワンが眠る時を。
(ああ……)
ピュンマは思った。
(ゼルに追いつめられる彼女の姿を僕とジェロニモは目の当たりにしていない。……だから……か)
仲間たちから話を聞いた。イワンからゼルの情報ももらっている。
しかし、自分の目でゼルとフランソワーズの様子を見ていない。だから不安が希薄なんだ、と思う。実感として湧いてこないのかもしれない。
でも……。彼女をそんな風に傷つけるのは絶対に嫌だった。
彼女は今どうしているのか。肩に負っていた傷は?命は?
ゼルが執着している以上、殺したりはしないだろう。
ただ、ゼルの目的が分からない。
前回の様に、ジョーや自分たちを苦しめるためだけに彼女を連れ去ったのか。
それとも、彼女自身を欲しているのか。
いや、どちらにしてもフランソワーズの身が心配だ。
もう一度、彼を促した。
「ジョー、長期戦になる。……今は休め。フランソワーズは、必ず君を待ってるはずだから……」
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