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        「ふん……それを選んだのか」 
        ゼルが小さく呟く。 
        「ゼルさま?」 
        「ユリア……知っているか?この演目を」 
        ユリアが、ちらりとゼルを見る。 
        ゼルは、決して彼女から視線を外してははいなかった。 
        「……ロミオとジュリエット……『バルコニーの場』ですね」 
        二人は、蝋燭のやわらかな光の中で踊るフランソワーズを見つめた。 
        夢見るような表情を浮かべた彼女は、ここにはいないロミオの姿と、彼と共に踊った思い出を手繰り寄せているジュリエットそのものだった。 
        ほんのりと頬を染め、しなやかな手足が彼を求めていた。 
        ユリアは、はっとしてゼルの方を振り返った。 
        「……これはお前の意志と、とっていいのだな」 
        ゼルが長い髪をまとわせて、ゆっくりと立ち上がった。 
        それでもジュリエットは、彼を想って舞い続けている。 
        恋した喜びと、彼への愛を全身で表現していた。 
         
        ゼルが、しっかりとした足取りで灯火の間を進む。 
        その動きに会わせて、小さな炎たちがゆらめいた。  
        「……お前は……。まだあいつを待つというのか?このバルコニーに、ロミオは現れない」 
        彼女の羽織った薄いドレスが、ふわりとゼルの目の前を横切った。 
        まるで重さというものがないかのように、彼女は軽やかに舞い続ける。 
        そして、その瞳はゼルを見てはいなかった。 
        甘い香りだけが、ゼルの周りに残っていた。  
        「ここでずっと一人で踊り続けるつもりか?永遠に来ないロミオを夢見て」 
        彼女の白い右腕を乱暴につかむ。 
        フランソワーズの動きが止まった。 
        息ひとつ乱さず、ゼルを見返す。 
        静かな音楽だけがその場に流れていた。 
        彼女は物怖じせず、ゼルをきつく見据えている。 
        青く澄んだ瞳に、自分のすべてを乗せているようだった。 
        ゼルはなにも言わず、ただ小さく息を吐く。 
        「踊れと行ったのはあなたよ」 
        彼女の小さいけれどしっかりとした声に、ゼルはにやりと唇の端を上げた。 
        そして、掴んだ腕を自分の方へと引き寄せる。  
        フランソワーズの強い瞳が目の前にあった。 
        ようやくその手の力を緩めるが、決して離しはしなかった。 
        「……馬鹿な部下が下らぬことを言ったようだな」 
        「……」 
        彼女はゼルから視線を落とすと、床に落ちたゼルの影を見つめた。 
        「あのような者は、決してお前の側に置きはしない。安心するがいい」 
        ゼルの言葉に不穏なものを感じて、フランソワーズは息を飲んだ。 
        「あの人は!?あの人をどうしたの!?」 
        ゼルの瞳に暗い光が輝く。 
        「……当たり前だ。始末した」 
        「………どうして…?あなたの部下でしょう?どうしてそんなに簡単に……!命をなんだと思っているの」 
        「私の言葉に従わぬ者は必要ない。それに……」 
        ゼルがちらりと彼女を見た。 
        「お前を傷つける者は、誰であろうと許さない。私はお前のために、なんでもしてやろう。それなのにお前は……まだあいつを待ち続けるというのか?ここを見つけ出すこともできないあいつを!」 
        「やめてっ!」 
        彼女がゼルの言葉を遮った。 
        「……」 
        「……あなたが……一番私を傷つける!」 
        時間が止まったかのように、ゼルは言葉を失う。 
        一瞬の静寂。 
        次の瞬間には、 ゼルは掴んでいた腕を思いきり引いてフランソワーズを床に押しつけていた。 
        「きゃあっ!」 
        彼女の口から思わず悲鳴が漏れた。掴まれたままの腕が痛む。 
        その肩を押さえつけて、上からゼルがのぞき込んでいた。 
        黒い瞳がまっすぐに彼女を見つめる。 
        そこにはいつもの皮肉な笑みは浮かんでいなかった。 
        背に冷たい物が伝う。  
        今までとは、雰囲気も状況も違う気がした。  
        何とか身を起こそうともがくものの、ゼルの力には歯が立たない。 
        「……お前はこんなにも無力だ。それをこの間確認したのではなかったか?」 
        感情を抑えた声。 
        ゼルの肩越しにゆらゆらと揺らめく蝋燭が眩しい。 
        「離して」 
        「なぜ、わからない?」 
        「……何をわかれというの?」 
        ゼルは、その冷たい両手で彼女の頬を包み込んだ。 
        「……なぜだ。なぜお前はあいつを待っていられる?……どうして私のものにならない」 
        ゼルの吐息が彼女の頬に触れる。彼女はきつく目を閉じた。 
        このゼルを見ているのが怖かった。 
        いつもと違う。 
        からかうような黒い瞳も、薄い笑みも、今はない。 
        「お前は、ここにいるのに……」 
        そのまま、そっと唇を重ねられる。 
        ひやりとしたその感触。  
        今までの力ずくのくちづけとは、まったく違っていた。 
        壊してしまわないように、傷付けてしまわないように優しく重ねられた唇。 
        愛おしそうに彼女に触れる唇。 
        暴力的でないくちづけはこれが初めてだった。 
        きつく目を閉じたまま、そのくちづけを受ける。 
        もう、彼女の抵抗はなんの意味もなさなかった。 
        ゼルの思うがままにされてしまうことと、このいつもと違った態度に驚きと恐れを感じずにはいられない。 
        (ジョー……!ごめんなさい……私は……もう………) 
        涙が滲む。 
        とうとうおそれていた日が来たのだと、そう思った。 
        もう、彼の元に帰ることはできないのだと。 
        「……お前は、どうすればあいつを忘れる?もう永遠に会うことは叶わないと言うのに」 
        ふいに唇を離してゼルが呟いた。 
        「………」 
        フランソワーズは、ゼルから顔を背けた。 
        ゼルに涙を見られることは、どうしても我慢できない。 
        たとえ、もう帰ることはできなくても。  
        「……あいつが生きている以上、お前はあらぬ希望を抱いてしまうのだな」 
        また、ゼルが小さく呟いた。 
        「な!何を…!」 
        「あいつが生きている以上、お前の心はあいつのものだ。私はそれを許さない」 
        「……お願い……やめて……」 
        「ここにおまえの愛しい男と、仲間の首を並べててやろう。私たちの全力を尽くして」 
        ゼルが彼女を見つめていた。瞳の奥に暗い輝きが宿っている。 
        「どんな者でも逃げられはしない。私を侮るな。我らの力を見せつけてやろう」 
        「……いや……」 
        「そうでもしなくては、誇り高いお前のことだ。私のものにはなるまい」 
        ゼルが彼女の髪を弄んで、薄い笑みを浮かべた。 
        「私をあなたの好きにすればいいわ!!」 
        彼女も、ゼルをまっすぐに見ていた。 
        青い瞳からこぼれ落ちる涙を、隠しもせずに叫んでいた。 
        ゼルはやるだろう。 
        研究所を破壊し、彼らをおびき出して……。 
        仲間たちがそう簡単にゼルの手にかかるとは思えない。 
        大半は仲間の手によって撃退されるだろう。 
        でも!でもこの世に仲間は9人しかいないのだ。 
        いつまでも執拗に続けられるだろう攻撃に、いつまで耐えられるのか。 
        その中には生身の博士もいるのだから。 
        そして自分がここに閉じこめられている以上、彼らが自分の安否を気遣って、存分に動けないことは想像しなくても分かる。 
        そんなことは、させられない。  
        「好きにすればいい。それがあなたの望みなら!私はあなたのことを愛す。……あなたのものになる」 
        涙が溢れた。 
        「ばかなことを。私がそれで満足するとでも思っているのか?私も見くびられたものだな」 
        ゼルが彼女を離すと、体を起こした。 
        「おまえが本心からそう言えるように、あいつらを根絶やしにしてやる。それまでおまえを我がものにはしない」 
        「……い、いや……」 
        「そうさせたのはお前であることを決して忘れるな。あいつらはお前のために死ぬのだから」 
        「やめて!!!」 
        彼女の悲鳴が部屋中に響き渡った。 
        ちらりとゼルが視線を走らせる。 
        「……おまえは……すべてが遅すぎた」 
        ゼルはその場から立ち上がると、振り返りもせずにゆらめく光の間を歩いて出ていった。 
        その場に彼女だけを残して。 
       
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        「……イワン、お願いだ。目覚めてくれ。もう君の力を借りることしか、僕らには手がない。イワン、フランソワーズを見つけてくれ」 
        目の前のベビーベッドでは、イワンがすやすやと眠っている。 
        彼女の危機を察知することはできなかったのか……穏やかな顔で眠るイワンに彼は呼びかけた。 
        「イワン……君の力で…ゼルを……」 
        ふいに廊下をばたばたと走る音がした。 
        彼がそれに気付いて立ち上がるのと同時に、ドアが勢いよく開かれた。 
        「ジョー!!」 
        「ジェット、どうした!?」 
        「早く来い!ゼルのヤローから通信だ!」 
        「何!?」 
        返事をするや否や、彼の姿はジェットの目の前から消えていた。 
        「ちくしょ、ジョーのヤツ、先に行きやがったな!」 
        悪態をつきながら、慣れない手つきでベッドのイワンを抱き上げる。 
        「お前にも一緒に話を聞いてもらうからな。眠ってたってお前には分かるかもしれねえモンな」 
        ゼルのヤツ、一体何をオレたちに伝える気なんだ?ジョーのヤツはもう限界に来ているし……。 
        ジェットは不安を抱えながらも、ジョーの後を追ってその部屋を出た。 
        その腕の中では、イワンが静かに眠ったままだった。  
        
         
       
      
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