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        食事の後、部屋の中には、珍しくユリアの姿がなかった。 
        それを確認して、フランソワーズはまたレッスン場に戻るために扉を開けた。 
        ここではなく、あそこで一人になりたかった。 
        自分の動ける範囲の、一番落ちつける場所。 
        いつも影のようにぴたりとついてくるユリアのおかげで、一人になれることなど、ほとんどなかった。 
        そのユリアがいない今しか、今後の事をゆっくりと考えられないような気がした。 
        この部屋の外には、常時、二人の兵士が見張りを続けている。 
        逃げられるわけがないと思っているのか、その意志がないと思っているのか、部屋の移動も今では自由にできた。 
        いつものように二人の兵士の間を通り、次の扉の前に立つ。 
        鍵穴に鍵を差し込んで、ゆっくりと回す。 
        かちゃりと小さな音がして鍵がはずれると、フランソワーズは、鈍い金色のノブを握った。すでに手に馴染んだ感触だった。 
        ふいに、後ろの兵士が含んだ笑いを漏らす。 
        「……昨日の敵が、今日はゼルさまの愛人か。それともペットと言った方がいいのか?」 
        フランソワーズの肩がぴくりと震えた。 
        「どうやってゼルさまに取り入った?したたかな女だな。仲間を売ったのか?」 
        「おい、やめとけよ。ゼルさまの耳に入ったら、ただじゃすまないぞ」 
        「大丈夫だよ、そこまで堕ちちゃいないだろ?003」 
        挑発的な言葉に、たまらなくなって振り返る。 
        唇を噛んでその兵士を睨み付けた。 
        「……っ!」 
        「愛人なら愛人らしく、おとなしくゼルさまに従っていればいい。なんのために俺たちがここにいると思っている?お前が逃げないか監視するためだ。ゼルさまに飼われているお前がお高くとまりやがって。ゼルさまの気まぐれで、お前がここに置かれているだけなのにな」 
        フランソワーズは、兵士から視線を外す。 
        「どうせお前の仲間たちは、ここまで辿り着くことなどできない。それなのに俺たちまでこんなところに閉じこめられてるんだ。お前のせいで」 
        「……」 
        「お前が暢気に踊っている間に、お前の仲間を根絶やしにしてやる。ここから逃げたければ、さっさと逃げればいい。ゼルさまの手から逃れられると本気で思っているのならな。……俺たちのためにも、さっさと覚悟を決めて欲しいものだよ」 
        「やめろって」 
        もう一人の兵士が、肩を掴む。 
        「いいんだよ。お前はここで満足してるのか!?この女の監視だけを続けて……」 
        「ご忠告ありがとう。考えておくわ」 
        男の声を遮って、何とかそれだけ言う。 
        さらに何かを言いかけた兵士たちを見ることもせず、逃げ込むようにして扉を開け、レッスン場にすべりこんだ。 
        内側からは鍵のかからない扉に背を預けて、唇を噛みしめる。 
        扉の向こう側で、男の罵声とそれを宥める声がまだしていた。 
        悔しかった。 
        出られるものなら、さっさとこんな所から出て行きたい。 
        誰が好き好んで、ここに閉じこめられているというのか。 
        ゼルに飼われているわけじゃない! 
        (……ジョー、お願い、ジョー……。私を助けて……。私一人じゃ、何もできないの) 
        ぽろぽろと涙が零れた。あわてて、手で拭う。 
        それでも涙は止まらなくて、ずるずるとドアに寄り掛かったまま、その場にしゃがみ込んだ。 
        (いつもみんなの足手まといになってばかりで……情けないけれど……。お願い。帰りたいの。あそこに。私の場所に。あなたの隣に!) 
        レッスン場には、月の光が差し込んでいた。 
        その中で灯りも付けず、心の中で彼を呼ぶ。 
        ずっと我慢していたものが、堰を切ったように体の外に溢れてしまう。 
        (……私をここから出して。自由にして!帰りたい。……帰りたいの。……それができないのなら……!) 
        ゼルの手の平の上で踊らされている自分が、嫌でたまらなかった。 
        こうして自分が追いつめられて行くのを楽しんでいるのだろうか。 
        (……ジョー……お願い……) 
         
         
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        明るい月明かりの中、フランソワーズは踊っていた。 
        結局、自分にはこれしかないのだと、自嘲気味に笑う。 
        一度溢れ出した涙は、しばらくの間止めることはできなかった。 
        けれど、ひとしきり吐きだしてしまって、却って頭の中がすっきりしたような気がする。 
        こうして踊ることで、自分の中の冷静さを取り戻したかった。 
        踊って、この気持ちを振り払ってしまいたかった。 
        青白い光が、彼女のしなやかな体を照らす。 
        彼女の足元には、柔らかな影が落ちていた。 
        指先にまで注意を払い、体中の感覚を研ぎ澄ます。 
        そうして、 ただひたすらに踊っていた。 
        頭が空っぽになるまで踊り続けて、ふと、いつものように彼の指定席へ視線を走らせる。 
        (ジョー、見ていてくれた?) 
        どきりと心臓が鳴った。 
        そこには黒い影があった。 
        長い髪が月の光に輝いていた。 
        彼女の動きが止まる。 
        (いや……、いや……。どうしてそこにいるの?どうしてその場所に……!やめて!そこはあなたの場所じゃない!ジョーの場所なのに……) 
        「……どうした?もう踊らないのか?」 
        (いつからそこにいるの?その場所を返して!そこがジョーの場所だって知っていてそこにいるの?) 
        フランソワーズは立ち尽くしたまま、動くことができなかった。 
        いろいろな感情がぐるぐると自分の中で渦巻いていた。 
        ずっと姿を見せなかったゼルの突然の来訪にも、心にそっと秘めていたその場所までもゼルに侵されたことにも。 
        不安と怒り。それだけではないいろいろな感情が行き場を持たないまま、彼女の中を駆け巡る。その場所から自分を見つめるゼルに対して、どう反応していいのか、それすらもわからなかった。 
        「それならば、私に見せてもらおうか。お前の心を」 
       
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        「踊れ。フランソワーズ」 
        ゼルの言葉に、フランソワーズは何も答えられなかった。 
        私の、心? 
        「踊るお前が見たい。あいつは、いつもお前を見ていたのだろう」 
        「……」 
        「観客は私一人。それだけの舞台だ。私のために踊れ。フランソワーズ」 
        彼女は視線を逸らした。 
        ゼルのために踊ることなど……! 
        自分のすべてをさらけ出されてしまうような恐れを感じていた。 
        そして、自分の中の大切なものを汚されるような気さえする。 
        どうして、そこまでゼルに従わなければいけないのだろう。 
        私は私でいたい……。ただそれだけのことが、できないなんて! 
        「お前はまだ自分の置かれた立場を理解していないようだな。お前は私のものだ。違うか?」 
        ゼルの声がすぐ側でした。 
        冷たいものが背筋を伝う。 
        「私は、お前を気に入っている。だからお前の頼みを聞いた。……仲間を助けてくれ、という頼みだ」 
        彼女は顔を上げなかった。 
        「……これ以上私を怒らせるな。なぜ、私がお前に自由を与えている?」 
        俯いたまま、強く目を閉じる。 
        「今からお前の大切な仲間の元へ、部下を送ってほしいのか?この場所をおまえの手から取り上げて欲しいのか?……それとも名実ともに、私のものになるのか?」 
        いつの間にか彼女のすぐ後ろに立ったゼルが、からかいを含んだ声で、そっと囁いた。 
        そして、その亜麻色の柔らかな髪を、指先で弄ぶ。 
        フランソワーズは勢いよく振り返ると、ゼルをまっすぐに睨みつけた。 
        怒りを露わにした青く澄んだ瞳がゼルを捉えている。 
        射るような視線。頬がほんのりと桜色に染まっていた。 
        ゼルはそれを見て、にやりと唇を歪める。 
        「その強い瞳は好みだな。ユリア、支度を手伝ってやれ」 
        その言葉をきいて、ユリアが扉を開けた。 
        扉の向こうから、強い光が流れ込む。 
        彼女が目を細めた。 
        「行け!」 
        ゼルの強い言葉に、躊躇いながらもドアの方に歩き出す。 
        なにもかもゼルの思い通りにされている自分が、悔しかった。 
       
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        ユリアに伴われて部屋に戻ると、そこには数人の女性が控えていた。 
        女たちは分担して、てきぱきとクローゼットを開けていく。 
        「衣裳はどうなさいますか?ここにあるものしか、今はご用意できませんが」 
        「……このままでいいわ」 
        「いいえ、お支度はきちんとさせていただきます。ゼルさまのご命令ですから」 
        彼女は小さく息をついた。また、これだ。 
        ここで起こることは、すべてゼルのため。 
        彼女を飾ることも、美しく仕上げることも。 
        フランソワーズはクローゼットの中から、薄くふわりとした白いドレスを選び出す。 
        レオタードの上にそれを羽織って、高めの位置でリボンを結んだ。 
        試しに少し体を伸ばすと、彼女の動きにそってドレスも柔らかく舞う。 
        これなら大丈夫だろう。  
        「音楽は、どれをお使いになりますか?」 
        違う女性が手にしたCDの中から一枚を選び出すと、曲をメモする。 
        それを確認して、ユリアがそれぞれに指示を与えていた。 
        ふと、いつもの舞台前の雰囲気と重なる。 
        こんな風に慌ただしい、少しぴりぴりとした空気。 
        舞台に立つ直前の緊張感。 
        それが心地いい。 
        「こちらへ」 
        ユリアに腕を引かれて、鏡の前に座らされた。 
        そうだ、今から舞台なのだ。 
        私にできること。……ゼルに文句のつけようのない舞台を見せること。 
        そういう戦い方だってある。大丈夫。できるわ。 
        ……大丈夫。  
        フランソワーズは、まっすぐに鏡の中の自分を見た。 
        ユリアが、彼女が一番美しく見えるように化粧を施そうとしていた。 
       
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        フランソワーズが部屋から、レッスン場へと戻る。 
        扉の前にはやはりユリアが控えていた。 
        こちらにむかって一礼すると、ゆっくりと扉を開けた。 
        扉の向こうには、光。 
        無数のオレンジを帯びた光が、揺らめいていた。 
        たくさんの燭台。たくさんの蝋燭。それに灯されたたくさんの淡い炎。 
        それらが、壁でゆらゆらと輝いている。 
        そして、舞台に当たる場所を、さらに多くの灯りが囲んでいた。 
        その奥の、闇に同化しているようなゼルの姿。 
        彼女の目には、それがはっきりと見えていた。 
        足を止めて、小さく息をつく。 
        その途端に、ユリアに舞台の方へと軽く押し出された。 
        振り返って、それを視線で咎める。 
        踊る以上は、自分にとっても最高のものを踊りたい。 
        ゼルに生半可なものを見せるのは、彼女のプライドが許さなかった。 
        一つ深呼吸する。 
        それから 両腕をゆっくりと上げた。 
        それを合図にしたように、音楽が流れ始める。 
        ゆったりとした静かな旋律が、その場を満たしていく。 
        ゆらゆらと揺らめく蝋燭の灯りと、その音の連なりの中に彼女の姿が溶け込んだ。 
        そして、すべるように最初の一歩を踏み出した。 
        
        
         
       
      
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