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17
フランソワーズは、いつもと変わらない部屋で、いつもと変わらない時間を過ごしていた。
夜も昼もなく、ただ、じっとここにいるだけ。
それなりに広さを保った部屋の中には、いつでも自分とユリアしかいなかった。
相変わらずユリアは何を言うわけでもなく、そこで自分を見ているだけだ。
年は自分よりすこし年上だろうか。
美しい女性なのだが、他人を寄せ付けないような冷たい雰囲気を持っていた。
長い髪をきっちりと整えて、背筋をぴんと伸ばして座っている。
ただ自分の側にいるだけ……。それだけの仕事に退屈に感じたりはしないのだろうか。
それとも、ゼルに対する忠誠心からそういった感情を押し殺しているのだろうか。
ユリアが生身の人間であることは、ここに連れてこられたばかりの頃によく見て知っていた。
今はおとなしくユリアの言うことに従っているが、いざというときには丸腰の自分にも倒せる相手だろう。
ここから逃れるチャンスを見誤らないためにも、自分の周りのことについてはできる限り調べたつもりだ。
今までに分かっていることは、この部屋の庭の奥には壁があること。
扉には3つの鍵がついていること。
扉の外にはまた小さな小部屋があって、少なくとも2人の兵士が、その前に立っていること。
時々、ユリアが自分の世話をするために、数人の女性を連れて来ることから、それなりの人数がこの建物内にはいるのだろうといこと。
自分の能力のすべてを活用してもそれだけしか確認することができず、フランソワーズは唇を噛んだ。
本来、調査に向いているはずの自分の能力がこれほど役に立たなかったことは、初めてだ。
ここはどこなのか。
ゼルやユリアは、一体どこから来ているのか。部屋を出て、何をしているのか。
ゼルはこの建物内にずっといるのか。それとも時折やってくるだけなのか……。
今の状況から見て、普段は違う場所にいるように思えた。
とにかく、今は行動を起こせるときではない。
もっと情報を集めなくては。まだまだ足りない。
ここから抜け出す方法を考えなくては。
彼女は小さく息をつくと、もう一度、辺りを見回した。

あれからゼルの姿を見ていない。
それだけに仲間のことが心配だった。
ふいにユリアが立ち上がるのが、目の端に映った。
彼女が不審に思ってそちらを見ると、ユリアが笑みを浮かべたように見える。
いつものつくりものめいた表情ではなく、妖艶な笑みを。
「ゼルさまがいらっしゃいましたわ」
ゆっくりとユリアの背後で扉が開く。
長い黒髪の男。
それを確認したユリアが、一歩下がってから、恭しく頭を下げた。
ゼルはそれを見ることもなく、つかつかと、まっすぐにソファに座ったフランソワーズの元へと歩いてくる。
どきりと心臓が鳴った。いつもと違う雰囲気、いつもと違う行動に少しだけ、恐れを感じる。
そんな弱みは見せたくなかった。きゅっと唇を結び、ゼルを見据える。
ゼルは、そんなことは気にもとめていない様子だった。
フランソワーズの前に来るなり、黙ったまま足下にかがみ込む。
そして、彼女の左足を自分の方へと引き寄せた。指先がしっかりと足首を捕らえた。
訳がわからずに、フランソワーズは身を固くした。
彼女の前に跪いたゼルは、小さな鍵を使って細い足首にはめられた枷を外す。
口元に、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「なにを……するの?」
いぶかしむ彼女の腕をしっかりとつかんで立ち上がり、入ってきた重たい扉に向かった。
脇にはユリアが控えている。
フランソワーズは半ば引きずられるようにして、扉をくぐった。
あんなに探っていた部屋の外だ。
今しかない、と目と耳を研ぎ澄ましてみるが、部屋の中と変わらない。
ゼルは彼女の腕を引いたまま、正面の小部屋に入った。
ほぼ真四角の小部屋にはそれぞれの壁にドアがあり、自分が見ていたとおり、二人の兵士が敬礼していた。
その前を通り抜け、右側の壁の扉の前で立ち止まって、彼女の腕を離した。
ゼルの黒い瞳が、ちらりとフランソワーズの姿を捕らえる。
そして、扉をそっと開けた。
「ここを、お前に与えよう」

彼女には見慣れた風景だった。
壁際のバー、はられた大きな鏡。
彼女の胸が高鳴る。
部屋は、広いレッスン場に仕立て上げられていた。
「必要なものはユリアに言え。とりあえずのものは揃えておいた。好きに使うがいい」
彼女を促し、レッスン場に足を踏み入れる。
フランソワーズは動けなかった。
一歩でも入ってしまったら、踊らずにはいられなくなる。
その気持ちを知ってか知らずか、ゼルは立ち止まったままの彼女の手を引いた。
彼女は抵抗する間もなく、そこに立ってしまった。
床の感触。
背筋が伸びる感覚。
この空気。
彼女の瞳に、一瞬だが、喜びが浮かぶ。
それを見つけて、ゼルは満足そうに笑った。
───こんな時に、一瞬でも踊りたいと思うなんて……。どれほど、自分は愚かなのだろうか。
それとも……こんな状態だからなのか……。
フランソワーズは唇を噛む。
「今の所、この部屋はお前のものだ。いつでも使っていい」
ゼルは、彼女の手の中に、クラシカルな装飾を施した鍵を落とした。
「お前が変な気さえ起こさなければ、自由は与えよう。今はまだこれだけだ」
彼女が驚いたように、ゼルを見た。
「最近は聞き分けがいいとユリアからの報告があった。ささやかな褒美だ。……お前は、ここで生きていくのだから……。それを忘れるな」
にやりと笑うと身を翻す。
長く黒い髪がふわりと舞って、ゼルが扉をくぐっていった。

フランソワーズは、それを目線で見送る。
ゼルの真意が、まったくつかめなかった。
ここに連れてきて閉じこめているのはゼルなのに、こんな部屋を自分に与えるのか。
どうして今、あの部屋から自分を連れだしたのか。
もう自分が逃げられないと、あきらめたと、そう思っているのだろうか。
疑問だけが彼女の中に渦巻いていた。
それでも、この部屋にいられることは彼女の心を軽くさせた。
ゼルの気配が消えた、しんと静まりかえった部屋。
思わず足を踏み出した。少しの罪悪感と緊張、恐れ。そして、喜びに背筋が震える。
もう一歩足を出してみる。 もう、止めることはできなかった。
ゆっくりとレッスン場を歩く。
裸足になって、床の感触を楽しむように軽く跳んでみる。
壁際のバーを指先でたどった。
久しぶりの感触。
そっと手を置くと、しっくりとなじむ。うれしくなって思わず微笑んだ。
ゆっくりとバーにつき、体を伸ばしてみる。すんなりと体が動いた。
そのまま腕を伸ばし、指先にまで気持ちをのせると、体がリズムを思い出す。
気持ちがいい……。
ほんのりと紅潮した頬。 彼女の瞳に生気が戻ったようだった。
こうしていれば、すべてが元に戻るような気がした。
ただ、踊っていたかった。
じっと目を閉じる。
そう、ここはいつものレッスン場。通い慣れた場所。
今日もここで踊ろう。
そして、そこにはジョーがいる。
迎えに来てくれた時、個人的なレッスンにつきあってくれた時、彼はよくその位置で自分の稽古を見ていた。
もっと真ん中で見ていてくれたらいいのに……。
そういう彼女にも少し笑って、ここがいいのだと言っていた。
それを思い出して、彼女もすこし微笑んだ。

そこにジョーがいる。

その想像は彼女の心を少しだけ軽くした。
いつも彼がいた位置。そこを、ただ見つめて踊っていた。


18
昼も夜も、時間の許す限り、彼女はそのレッスン場にいた。
音楽もかけず、ただひたすらに踊り続けていた。
踊っている間だけは、なにもかも忘れることができる気がしていた。
今、自分が置かれた状況も。
何もできない自分への苛立ちも。
それをじっと見つめているのはただ一人。ユリアだけだ。
食事の時間と眠る時間にだけ、ユリアは彼女に干渉してきた。
フランソワーズもそれに逆らうことはしなかった。
ここから脱出するには、体力は残しておかなければならない。
そのためにも、今は無用な摩擦は起こしたくはなかった。
ユリアの表情からはなにも読みとれなかったが、自分の態度に満足しているだろう事は分かった。
その証拠に、このレッスン場の鍵は今もフランソワーズの手の中にある。
だが、彼女にはゼルの思惑が理解できず、さらに不安が広がっていた。
ゼルは自分をどうしようというのだろう。
ただここに閉じこめて置くだけで、何が目的なのか見当もつかない。
いつかのように、ジョーや仲間を苦しめるためだけなのだろうか。
その割には、自分を自由にさせすぎているとも思う。
わざわざユリアをぴったりと付けてまで、自分に自由を与える意味があるのだろうか。
彼女は小さく息をついた。
今頃きっと、仲間たちは自分を心配していてくれるだろう。
そして、行方を探してくれているだろう。
それなのに……。ここに閉じこめらたまま、何もできない自分が歯痒かった。
なにか自分にできること。
ただ待っていることなんて、できるはずもない。でも……。
ふと顔を上げる。
辺りはもう夕闇が迫っていた。
部屋の窓から、茜色からだんだんと深みのある紺色へと変化していく空が見える。
また夜が来る。
もうどれくらいここにいるのかすら、分からなくなっていた。
彼女はぎゅっと目を閉じた。
ああ……。ジョー。
ほんの少し前のことなのに、ずっと昔のことのように感じられた。
私、あなたとの約束を覚えてる。
その約束が果たされることを、望んでなんかいない。
だけどあなたが約束してくれて、少しだけ安心できた。
これで例え自分がどうなったとしても、どんな状態にあったとしても、彼がすべてを終わらせてくれる。
そして、それを彼に望む自分は卑怯だと思った。
自分の責任もすべて放棄して、自分だけが楽な道を彼に選ばせるなんて。
ジョー……あなたに頼ってばかりの私を、許して。
あの時の、あなたの言葉、決して忘れないから。

 

19
「フランソワーズ、どうかした?」
海からの風に髪をなびかせたまま、急に辺りを伺う素振りを見せた自分に、ジョーがそっとたずねた。
「ううん、なんでもなかったみたい。少し、気になっただけ」
安心させるように笑って見せる。少し妙な気配を感じただけだった。
目と耳を使ってあたりを探ってみてもなんの変化もない。
まだ、少し緊張しているのかもしれない。

ようやく伝えられたイワンの予言。
それによって乗り込んだ豪華客船。そのデッキで、辺りの様子を伺うのが今の自分の任務だ。
もう一度『目』を使ってまわりを確認する。
見渡す限りの青い海。その中には今のところ異変は感じない。
澄んだ青空……。そこにも何一つ不審なものは見つけられなかった。
「そう、ならいいけど。イワンの予言だけじゃなにが起こるのか見当もつかないね」
彼も息をつく。
そして、何かをじっと考えこんでいた。
ゼルのことだと直感した。
彼も含めた仲間の全員が、今回の自分のこの乗船には難色を示していた。
これはゼルの罠じゃないかと、言葉には出さなかったけれどそう言っていた。
だけど。
今回のこの行動には、自分の力が必要不可欠だということがはっきりと分かっていた。
自分の能力があれば、乗客やベルリネール氏に対する危険を回避できるかもしれない。そう思っていた。
だからこそ、裏にゼルがいるのかどうかも分からない状態で自分だけ仲間に守られ、庇われているのは我慢できなかった。そして、自分も一緒に戦いたかった。戦士の仲間の一人として。
視線を落として、黙りこくったままの彼に声をかける。
「ジョー」
彼の瞳を見上げた私に、小さく頷く。
「……ゼルのこと?」
少しだけ聞くのが怖くて、尋ねる声は小さくなってしまう。
「……うん」
少し考えてから、意を決したように彼が肯定した。
ああ、やっぱり……。
ずっと前から考えていた。今度、以前と同じようなことになったら、私がどうするべきか。
「……私ね」
じっと彼の瞳を見つめる。この気持ちが伝わるように。
「……みんなや……あなたの負担になるのはもういやなの。私だってみんなの仲間だって思いたい。足枷になってるなんて、いや。だから……」
ジョーがそっと肩を抱きよせてくれた。その腕から暖かなぬくもりが伝わってくる。
ジョー……。
あなたのそのぬくもりがうれしい。
「そんなこと、思うわけないだろう。みんなが君を負担に感じると思うかい?」
「ううん、きいて、ジョー」
あなたの気持ちはうれしい。きっと、本当にそう思わないでいてくれる。でも!
でも、私が苦しいの。あなたやみんなの動きを封じてしまうことが。
「もしも、また私がゼルの手に落ちて、自分ではどうすることもできなくなったら……」
そう、ずっと考えていたの。
ゼルの手の中で、いいように踊らされていた時。
自分ではどうすることもできなくて、追いつめられて……。だから……
あなたになら悔いは残らない。


20
ジョーは焦っていた。
依然として、フランソワーズの消息はつかめていない。
心の中は、苛立ちと不安で埋め尽くされているというのに、その行動はいつにも増して冷静だった。
ゼルは、一体どこに彼女を隠してしまったのだろう。
気になるところは、しらみつぶしに探っている。
こんなにも長い間、こんな風に離れているのは初めてだった。
それだけに彼の疲労も、頂点に達していた。
彼女がいない。
ただそれだけで、自分は元より仲間たちみんなが苛立ち、些細なことで衝突するほど疲れていると感じていた。
そして、彼女がどれだけその疲れを癒してくれていたのかを、驚くほどに感じていた。
彼女の存在はそれだけ大きかった。
誰もが彼女に助けられていたのだと、だれもが今、思い知らされていた。
(フランソワーズ……。君は今……どこで、どうしている?)
ジョーは、手元に広げた地図に目を落とした。
(たとえ、君に何があったとしても、僕は君を迎えに行く……。どうか……どうか無茶なことはしないでくれ。早まったことは……)
ふと、あの時の彼女の真剣な言葉を思い出す。
胸騒ぎがした。
どうか、どうか無事でいてくれ。それでないと僕は……。
君の覚悟は分かってる。僕だけはそれを知っている。
彼女は、まっすぐに僕を見つめて言ったんだ。


21
「……みんなや……あなたの負担になるのはもういやなの。私だってみんなの仲間だって思いたい。足枷になってるなんて、いや。だから……」
そっと彼女の肩を抱きよせた。小さな肩が震えているように見えて、僕はたまらなかった。
今までそんな風に思っていたのか?
僕がここにいる。だから、どうかそんなに怖がらないで。
僕にとっても、みんなにとっても、君はいなくてはならない仲間なんだから。
「そんなこと、思うわけないだろう。みんなが君を負担に感じると思うかい?」
「ううん、きいて、ジョー」
真剣な声。
「もしも、また私がゼルの手に落ちて、自分ではどうすることもできなくなったら……」
真剣な眼差しが僕を射る。
「……あなたの手で、私を殺して」
息を、呑んだ。
まさか!僕にそんなことができるわけない!どうして君は……。
僕は、そう言いかけて口をつぐむ。
……不安なのか?
黙ったまま、彼女を見つめた。
彼女もしっかりと僕を見つめ返してくれる。
そして、ふいに彼女が微笑んだ。
「それからもう一つ約束するわ。私だって最大限、闘ってみせる。どうやっても、みんなの、あなたの元に戻る。その努力はする。自分で自分の命を盾にするのは最後の手段よ」
穏やかな中にも、強いものが秘められた彼女の様子にどきりとした。
「だから……、これはもしもの時のお話」
上目づかいに、言葉少なくそう言う彼女を、思わず抱きしめる。
君がそんな風に考えていたなんて、知らなかった。
ずっとそばにいて欲しいのに。
ゼルの手に落ちた時のことなんて、考えさせたくないのに……。
それをさせてしまったのは、僕が不甲斐ないからだ。でも……!
「………わかった」
それしか言うことができなかった。
それだけの覚悟であたらなければ、ゼルとは渡り合えないだろう。
フランソワーズもそれを感じている。
だからそれを僕に伝えてくれたのだと思った。
そんなことは絶対にさせない。そんな事態にさせられるわけがない。
誓ったんだ。
必ず守るって。
あの時、たとえパラライザーでも、君に銃をむけるのは怖かった。
存在さえしてくれたら、どこにいたって救い出せると約束できるのに、ゼルの手の届かない、僕さえも手の届かない場所に行ってしまうのが怖かった。
思わず彼女を抱きしめた腕に力がこもる。
彼女もそれに応えるように、僕に寄り添ってくれた。
そして僕にやっと聞こえるくらいの声でささやいた。
「ジョー……ありがとう」
彼女は真剣だった。
だからあの時……。ゼルに連れ去られる時の、彼女のあの言葉。

彼女にそっと誓った、僕だけの約束は守ることができなかった。
でも、二人で交わしたもう一つの約束は守らないよ。
君をこの手で殺せるくらい近くにいるのなら、僕は君を奪い返す。
待っていて。フランソワーズ。僕は決して君を傷付けない。
そして……。
そして二度とそんなことを思わないように、僕がずっと側にいるよ。
君の側にいたいんだ。
だから、待っていて。
もうじきイワンも目覚める。
そうすれば現状を打開できる。
何か手がかりをつかめるだろう。もう少しなんだ。
だから、必ず待っていて。

ジョーはぎゅっと拳を握りしめると、もう一度地図を見つめ直した。

 

 

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