完全にお遊びです。
Le soirとストーリー 展開はほぼ同じです。
とばされたのが、ジョーじゃなくてハインリヒさんだったら……という妄想。
(Le soirを基盤にしているので、ものの考え方もちょっとジョーよりかもしれませんが、大目に見てください…)
よかったらどうぞ。

…これやろうとおもったら、いろんなキャラでできそうですね(笑)
もしもこの人でやってみて!というのがありましたら言ってみてください。
いけそうだったらがんばってみるかも???




 


Le soir ver.4



『ホギャア!ホギャア!』
突然邸中に響き渡った声に、ハインリヒは目を覚ました。
「イワン!?」
咄嗟にベッドから飛び降りてスリッパを引っ掛けると、部屋から飛び出した。
おかしい、イワンの時間でもまだ『夜』のはず。しかも眠りに入ってちょうど一週間。たとえ誤差があったとしても、目覚めるような時期ではなかった。
なにか危険が迫っているのか?
真っ暗な廊下の足元に常夜灯が灯っている。
きんと冷えた空気がまだ真夜中だということを示していた。


イワンの眠る部屋のドアの内側からは、激しい物音が響いていた。
そのドアに飛びつくように手をかけるが、それはびくともしない。
それどころか内側から引っ張られているような気配さえしていた。
ハインリヒはすぐさまドアを叩いた。
「イワン!どうした?何かあったのか!?」
変わらずの大きな泣き声と何かが壁にぶつかる重い音が壁越しに伝わってくる。
しかし、激しい泣き声がするばかりで、テレパシーのようなものは何一つ届いてはこない。
「イワン!」
ガシャンと中から何かが破裂するような高く耳障りな音が響いた。
その瞬間、ハインリヒはためらわずに思い切りドアを引く。
蝶番に鈍い感触を感じ、その途端にドアに対する抵抗もあっさりと消え去ったようだ。
「イワン!大丈夫か!?」
呼びかけながら、上部の蝶番がはずれて傾いたドアを押しよけて開けた途端、真正面になにか光るものを感じた。
それを認識したと同時に、ハインリヒ目がけて正面の中空からまっすぐにガラスの破片が降り注いだ。
「ちっ!!」
小さく舌打ちして、咄嗟に両腕をあげて目をかばう。
腕にも顔にも少しばかり鋭利なものを感じたが、それでも腕の隙間から素早く部屋の中を見回した。
足元では小さく音がして、床に突き刺さろうとしたガラスが砕けて行く。
探った目の端に、イワンのゆりかごが映った。
この嵐のような喧噪の中、天井近くをまるで波に洗われる船のように漂っていた。
「イワン!」
もう一度部屋中に目を走らせる。
激しい泣き声に合わせてありとあらゆるものが宙を舞い、壁にぶつかっては落ちていく。
大きく割れた窓からは風が吹き込み、水色のカーテンを大きく揺らしていた。
さっきのガラスはこれか、と思い至る。
その影にも目を凝らすが、どこにも怪しい影などは見当たらない。
イワンを脅かす侵入者がいた訳ではなさそうだ。
ハインリヒはにやりと小さく笑みを口元に浮かべる。
「おい!イワン!」
そう呼びかけるが、ゆりかごはゆらゆらと漂い、そこを中心に竜巻のようにいろいろなものが渦を巻いて浮き上がり、衝突しては墜落し、また浮き上がっていた。
イワンの声に合わせて、風にあおられていたカーテンもさらに大きく翻っている。強く吹き込む冷たい風が彼の頬を刺す。
「どうしたんじゃ、ハインリヒ!!」
「博士!」
ドアから、ギルモア博士が顔をのぞかせた。
途端に宙に浮いていたものが一瞬そのまま静止する。
「イワン!どうしたんじゃ」
ギルモア博士が声を発した、次の瞬間にはそれらのものが一斉に入口に向かった。
「博士!危ない!」
「うわっ!」
博士の前に立ったハインリヒの銀色の髪をかすめて、重たそうな本がドアの端に勢い良く衝突する。
彼の髪と着ているものの裾が、煽られるように舞い上がった。
「やってくれるな、イワン……。博士、危険ですから、中には入らないでください!イワン!!」
大きな泣き声をあげながら、イワンのゆりかごはさらに激しく不安定に揺れていた。
「どうしたんだ、イワン、なにかあったのか?……それともなにか予知したのか!?」
声を限りに泣き続けていたイワンの声とゆりかごとがぴたりと止まる。
「イワン!」
「イワン、大丈夫か!」
ハインリヒの肩越しに博士がイワンの様子を見つめた。
天井近くまで舞い上がっていたカーテンが、ふわりと定位置に戻り、宙を飛び続けていたランプや本が、ごとりという重たい音を立てて床に落ちて行く。
「イワン!」
博士の呼びかけにイワンのゆりかごがゆっくりと大きく傾いた。
あっと思う間もなく、そこからこぼれるように落ちて行くイワンの小さな体。
「くっ!!」
ハインリヒが両腕を思い切り伸ばして滑り込むと、イワンの体を抱きとめる。
「イワン!大丈夫か!?」
姿勢を立て直して、床ギリギリのところでかろうじて腕の中におさまってくれた赤ん坊を覗き込んだ。
温かな小さなこの身体に今の衝撃が影響を与えていないだろうか……。
それ以前に、この床の上にはガラスの破片がまき散らされてる。
自分の体なら、この程度で傷の一つもつくことはないが、イワンは違う……。どこか怪我は……
ハインリヒの薄い色の瞳が細められた。
ーーぷくぷくとした頬に涙が伝っていた。
いつもくわえているはずのおしゃぶりのない口が喘ぐように動く。
「イワン?」
いつの間にかやわらかそうな髪の間から、イワンの光る目がまっすぐに彼を見ていた。
二人の視線がぶつかる。
「大丈夫か!?一体どうしたんだ、イワン」
一呼吸置いて、火のついたように大声を上げ小さな体をのけぞらせるようにして、またもイワンが泣き出した。
「イワン!」
イワンの体を抱え直す。腕の中の赤ん坊は手足をばたつかせ、まるで抱かれることに抵抗しているようだった。
どこからこんなに出せるのかと思うほどの大きな泣き声が、ハインリヒの耳に突き刺さる。
次の瞬間、目の前が突如として暗くなる。
(…イワンのやつ…一体何を……)


遠くで博士の彼を呼ぶ声が聞こえた気がした。

 

 

 

「きゃあっ!!」
高い声と、ごとんと何かを取り落とす鈍い音。
「はっっ!?」
その声に驚いて目を開ける。
そこには、光が溢れていた。ここは?そう思う間もなく、くらりと視界が揺れる。
腕の中では小さな赤ん坊が声を振り絞って泣いていた。
「イワン!?ハインリヒ!?」
驚いたような声。
イワンの泣き声が響き渡る。
白い手がすぐさまハインリヒの腕の中になんとか収まっていた赤ん坊を奪い取り、その腕に抱き上げた。
途端にイワンの声が少しだけ小さくなったのを感じる。
「……フランソワーズ……?」
目の前には、亜麻色の髪の女性ーー、言わずと知れたフランソワーズの姿があった。
はっと息を飲む。
(フランソワーズに何かあったのか!?)
咄嗟にそんな考えが浮かんだが、イワンをいつものように抱き上げてあやしている彼女に何事かが起こっているようにも見えなかった。


「イワン、どうしたの?大丈夫、大丈夫よ」
それでもまだ切迫したようなイワンの泣き声とは裏腹な、柔らかな声がする。
両腕に抱いたイワンを軽く揺するようにして、フランソワーズはイワンの顔を覗き込んだ。
イワンの泣き声がだんだんと収まって行く。
「ほら、もう大丈夫よ」
小さく微笑みかける。
「どうしたの?…何かあった?……怖い夢を見たのかしら?」
優しい声で囁いて、フランソワーズが指先でイワンの頬をぬぐう。そのまま柔らかな頬を撫で、前髪をかきあげるようにしておでこに手をやった。
いつもは隠れて見えないイワンの瞳があらわになる。
小さくしゃくり上げていたイワンが、じっとフランソワーズの姿を見つめていた。
「ふらんそわーず」
「そうよ、フランソワーズよ……」
イワンの体をそっと胸に抱きしめた。


大切そうに胸の中に包みこんでいる姿は、どこか子供の頃に見た教会の宗教画のようだ…と思う。
フランソワーズのあの表情と、イワンの様子はどこか神々しくすら感じられた。
もっとも、この二人を神のような不確定なものと同等に扱うつもりはないが。


それでもフランソワーズに抱かれて、イワンの表情は少しずつ柔らかくなっているように見えて、少しばかりほっとした。
先ほどまで、腕の中で突っ張るようにしてむずがっていたイワンの様子を思う。
自分や博士ではおさめられなかったイワンを、こうも容易く彼女は安心させてしまう……。
女は、みんなあんな力を持っているのだろうか?……それとも、これはフランソワーズだからなのか。
ぼんやり考えて頭を振った。

徐々に落ちついて行くイワンの呼吸に、フランソワーズは小さく安堵した。
「ふらんそわー…ず」
「なあに?イワン」
イワンのまぶたがゆっくりと落ちて行く。
小さな手のひらがぎゅっと、フランソワーズの少しウェーブのかかった長い髪を掴んだ。
「大丈夫、イワン。私はちゃんとここにいるわ」
頬に軽く口づけをする。
『ゴメンヨ…ふらんそわーず………はいんりひ……』
イワンのかすかなテレパシーが届き、あとは緩やかな寝息が聞こえるだけだった。
フランソワーズはしばらくの間、そのままの姿勢で少しだけ体を揺らしイワンの寝顔を見つめていた。
頬に残った涙の後をそっと拭く。


フランソワーズは黙ったまま、彼にソファに置いたブランケットを取ってくれるよう身振りで伝えた。
ハインリヒはそれを片手で広げて手渡すと、フランソワーズは手早くイワンの体を包み、そのまま寝室へと運んで行く。
その後ろ姿を見送ってハインリヒはひとつ息をついた。
「……大したものだな、フランソワーズは」

 

 

「…びっっっっくりしたわ」
しばらくして戻って来た彼女は、ソファに座ったハインリヒの前に立ったまま、青い瞳を見開いてそう言った。
「いきなり目の前にあなたとイワンが現れるんですもの、本当にびっくりしたんだから」
「悪かったな、驚かせてしまって……。夜中に泣き出したイワンを抱き上げたら、これだ」
両手を上げる。
「なにかあったのかと思ったけれど、そういう訳ではなかったみたいね…」
「ああ…。イワンとここに来た時は、君になにかあったのかとも思ったけれど、そうでもなさそうだ」
「私?…私は大丈夫よ」
「予知夢を見たのなら、どうにかして俺たちにそれを伝えるだろう。イワンなら」
「ええ」
「……ただ、かなりの泣き方だっただろう?イワンの体に何か起きているのかとも思ったが…こうあっさり眠ってしまうところをみると、そうでもなさそうだし。……原因が分からなくてね」
「……」
しばらく、なにかをじっと考えるようにしていたフランソワーズが、ふいにソファに座ったハインリヒの髪をなでるように払った。
「なんだかキラキラしてると思ったら。…ガラスの粉なのね?髪の色にまぎれて分からなかったわ」
よく見れば頬にも、腕にも鋭利なものがかすった跡がある。
「ああ、そういえばイワンがガラスの破片をぶつけて来たんだった。俺は問題ないが、イワンの方は大丈夫だったか?」
腕を上げて自分の身体を見て、はたとその格好に気がつく。
青いパジャマ、しかも裸足だ。
「すまない、こんな格好だ」
「ううん、だって今、日本は真夜中だもの。……ハインリヒ、日本に行っていたのね」
そう言って、フランソワーズがふんわりと笑う。
「ああ、メンテナンスの時期だったんでね」
「…みんな元気だった?」
「もちろん。ああ、まだジョーとは会ってないな。やつはちょうど出かけていて留守だった」
フランソワーズがいじわるね、と小さくつぶやいた。そうして、少しだけいたずらめいた笑みを浮かべる。
「それ、着てくれたのね」
「ああ?このパジャマか。…用意されていたんでね。フランソワーズが置いて行ってくれたのか?」
「ふふ、そうよ。みんなほとんど着の身着のままで来るでしょう?だからストックしておいたの。よかった、似合ってるわ」
ハインリヒは降参だというように手を挙げた。
フランソワーズに敵うわけがなかった。

久しぶりに目にしたフランソワーズは、変わらないように見えた。
ふわりと少しだけウェーブがかかった亜麻色の髪はつややかだった。白い頬、桜色のくちびる。
こんな時間にこんな風に訪問することになっても、いつものように柔らかな笑みを返してくれているということは、少しは歓迎してくれているのだろうか。
そう思ったとき、彼女の指が、再度ハインリヒの銀色の髪に触れた。
「こんな大きなガラスの破片まで……。他にも入っていたら危ないわ。それに寒いでしょ?とりあえずシャワーを使って」
有無を言わさぬ言葉で追い立てられる。
自分が怪我をすることなどはないが、自分が持ち込んだガラスのかけらで、フランソワーズやイワンが傷つくのは困るな。
そう思って、ハインリヒは素直にバスルームに押し込められることにした。

「着替えとタオル、ここに置くわ。着替えはお兄ちゃんので悪いんだけれど……」
「いや……こっちこそ悪いな」
「私、急いでドラッグストアに行ってくる。イワンのミルクもなにもないもの。あ、おしゃぶりも。もしかしたら眠りが浅いかもしれないし。大丈夫、すぐそこなの。だからゆっくり入っていてね。もしイワンが起きちゃったらお願いね」
口早にそう言うと、ハインリヒの返事も待たず彼女は大急ぎで部屋を飛び出して行った。


ハインリヒは小さく息をつく。
フランソワーズは相変わらずだ。しかも今はイワンの「ママ」になっている。
こんな時の彼女に、誰が逆らうことができるだろうか。
おとなしくシャワーのコックをひねった。
温かなお湯を浴びると、目も頭も冴えてくるような気がした。

よく考えてみたら、フランソワーズに会うのも久しぶりだ。
以前はみんなずっと一緒だったのに。……生活も、運命も。
ジョーとは会っているのだろうか。
…あいつらは見ているだけでもどかしいから、まあ、話を聞くのはやめておこう。
それよりもイワンだ。
事件でも予知でもないとしたら、あの様子はなんだ?
あんな泣き方は、ほとんど見たことがなかった。


ひととおり湯を浴びて、きれいなボトルのシャンプーに手を伸ばす。
ふわりと香るほのかに甘い香りーーーフランソワーズの匂いだ。
すぐにそう思った。
少しだけ口元に笑みが浮かぶ。
…ちっとも変わらないんだな。

髪に残った香りを洗い流すように浴びていたシャワーの音にまぎれて、なにか声がした気がした。
フランソワーズが戻ったのか?そう思ったが、それにしては早すぎる。
またイワンが?
急いでシャワーを止め、タオルを引っ掛けながらバスルームのドアを開ける。
耳をすますが、それらしい声は聞こえなかった。
聞き違いならいいが……。
幸いにというべきか、困ったことにというべきか、フランソワーズはまだ戻っていない。
手早くタオルを腰に巻き付けてイワンの眠る部屋へ向かおうとして、はたと気がついた。
ここはいつもの研究所ではない。
部屋だって……フランソワーズのプライベートな部屋だ。
いくらイワンの様子を見る、といっても中を覗くのは、良くないことだと感じる。
明らかに泣いていたり様子がおかしいのならばともかく。
…だが彼女は「起きたらお願い」と言い残して出かけて行った……。
少しの間逡巡する。そして、「ちっ」と自分に小さく舌打ちした。
何をためらう理由がある?こんなことは、今までだって日常茶飯事だったじゃないか。
気にする必要なんてなかっただろう。
そう自分に言って、一歩を踏み出した。

 

かちゃり、と音がして玄関のドアが開くのが目の端に映る。
「……」
声も無く、驚いた顔をしたフランソワーズと目が合った。
しまったなと思う。せめて着替えてからにすればよかった。
髪からしずくがぽたりと落ちた。
自分たちのこんな格好は見慣れているだろうと言えばその通りだが、なぜだかいつもと勝手が違う。
一瞬の間を置いてフランソワーズが声を発した。
「ど…どうしたの?」
「……いや、イワンの泣き声がした気がして…」
こちらもにこりともせず、それだけ告げる。
「え?」
荷物を両手に抱えたまま、彼女の寝室へと向かって行った。
ハインリヒは小さく息をつく。
そしてすぐさまバスルームへと飛び込んだ。
……何だっていうんだ。俺は。
いつも通りのはずなのに、なぜか何かが違う。
もう一つ息をついた。

 

ジャンの服を借りてバスルームから出てみると、まだ彼女は寝室のようだった。
「……やっぱり何かあったのか?」
寝室のドアの前に立つと、小さくノックした。
「フランソワーズ、大丈夫か?」
「大丈夫よ、よく眠ってる。一応おむつもかえておくからそっちで休んでいて」
小さな声で返答がある。
ほっと息をついた。
聞き違いか、もしかしたら寝言の類いだったのかもしれない。
何事もなかったのなら、それでいい。

 

戻ってあらためて見ると、テーブルの上にはまだ手をつけていないパンと、使っていない食器。
床には多分サラダだっただろうものが散乱していた。
…そういえば、ここに現れたときに耳にした、彼女の小さな悲鳴となにかの落ちる音…。
これを落としたのか。
ハインリヒは手早くそれを片付けながら、まだシンクの上に残っていた野菜たちを見た。
気付けば、いい匂いが部屋に充満していた。
夕食…これからだったんだな。
ハインリヒは同じようにシンクの上に残されていた包丁を手にすると、4分の1になっているキャベツを吟味しはじめた。

 

テーブルの上に盛りつけたボウルを置いて、置かれたままの鍋に火を入れたところで、フランソワーズが戻って来た。
「ハインリヒ?」
「ああ、さっきは悪かったな。俺も慌てていてね。君が戻って来てくれて助かったよ」
「あ…サラダ」
テーブルの上を見て、フランソワーズがつぶやく。
「悪いがあっちにあったのを勝手に使わせてもらった」
「床も片付けてくれたのね。ごめんなさい」
ハインリヒは薄く笑む。
「こっちとしては、あんなイワンを眠らせてくれただけでも大助かりだ」
「そんなことないわ」
フランソワーズが少しだけ表情を曇らせた。
少しの間沈黙が流れる。
火にかけたままの鍋が暖かく湯気をのぼらせはじめていた。それをちらりと見る。
「イワンは落ちついて眠っているようだ。今現在他にどうすることもできない。まずは食事を」
ハインリヒは鍋を親指で指し示して言った。
「ありがとう。よかったらハインリヒも一緒に食べない?今日はシチューなの。ついたくさん作りすぎちゃって……」
ようやく彼女が微笑む。
ハインリヒは小さく笑って、そうだな、とつぶやいた。

 

食事の後、フランソワーズがテーブルにお茶を置いた。いい香りのするコーヒーだ。
自分の好みに合わせてくれたことに少しだけ笑みが浮かぶ。
彼女のお茶を飲むのも久しぶりだ。一緒にいたときは当たり前のことでも、今では懐かしさに似た気持ちも感じた。
一人で飲むコーヒーよりも、ゆったりとした気持ちにさせてくれる。
暖かい食事とこのお茶のおかげで、人心地ついた気がした。

そして、その後やっぱり思いが行き着くのはイワンについてだった。
「イワンはどうしたっていうんだ。いつもの予知夢を見た時とは、様子が違う……いつもよりもずっと激しかった」
「そうね…予知ではなかったみたい…。泣き方もちょっと違ったし……。それに今はよく眠っていて目覚める気配もないもの……」
フランソワーズはそうつぶやいて、それから何かを考えるようにしてちらりと天井を見る。そして、次にハインリヒを見た。
「あの…これは、私の勝手な想像っていうか…本当のことはわからないわ……。でも…でも多分ね……」
少し迷ったように瞳を巡らせる。
「……イワンはお母さんの夢を見たんだと思うの」
「母親の?」
フランソワーズはこくりと頷いた。
「……前にも一度あったの…。私のことを、ママと呼んだわ……ううん、一瞬、間違えたのね。本当のママと」
ハインリヒは手にしたカップをテーブルに置く。
「そうか…」
「いくら頭脳が優れていても超能力を持っていても、体はまだ赤ちゃんなんだもの、バランスが取れない時だってきっとあるんだと思う。頭脳と心、心と体、どちらも……」
彼女が眉根を寄せる。
普段はそんなことを微塵も感じさせない理知的なイワンだけれど、時々はそんな風に思い出してしまうことだってあるだろう。
私だって、両親や兄のことを思う日はあるのだから……。フランソワーズは思う。
生まれてすぐに改造され、両親と離れてしまったイワンなら、なおさら。
普段感情をコントロールしているだろうからこそ、こんな時には反動が大きく出るのかもしれない。
だから、眠っているとき、そんな時に…。

 

「……せめて私が、もっと近くにいてあげればよかった」
「そんなことはない」
「そろそろイワンのことも心配だったから、一度日本に戻ろうと思っていたところだったの。もうちょっと早く行動していたら、イワンも哀しい夢を見なくてもすんだかも…」
フランソワーズは頭を振った。
「……夢、か」
ハインリヒが小さくつぶやく。
「…夢でも、会いたいと思う気持ちは、あるのかもしれない」
はっとしたように瞳を曇らせてフランソワーズがハインリヒを見た。
「たとえ夢だとわかっていても。…すでに朧気になってしまっていても。記憶の底の、その姿を確認したくなる時も…な」
「……」
「だから哀しい夢、とは限らないだろう?…きっとイワンには必要なことだったんだ」
「……ごめんなさい」
フランソワーズが俯いたまま、小さく言った。
「なにを謝ることがある?」
「…きっと私の驕りね。哀しいなんて、そんな風に決めつけてしまって」
「まさか」
ハインリヒが笑みを浮かべる。
「悪かった。そういう意味じゃない。…君は優しいから、余計なことで傷つけてしまう、な」
そう言ったきり、口を閉ざす。
少しの間の沈黙。
時計の針が時を刻む音だけが、部屋に響いていた。

 

「イワンは…全部わかってる。両親のことも、今の状態も」
フランソワーズは小さく頷いた。
それが余計に哀しい。
「だが、イワンは君になら助けてもらえると知っている」
「……そう……かしら」
「…きっと俺たちではそれはできない。フランソワーズにしか、きっとできない」
フランソワーズがくちびるをぎゅっと引き結ぶと、ひとつ小さく息をついた。
「……私は……イワンを守る。それが私にしかできないのなら……。ううん…今そばにいられないのに、そんなのおかしいわよね」
「フランソワーズ」
ハインリヒは、テーブルの向かい側で俯いたままのフランソワーズの頭に、ぽんと手を置いた。
「イワンはそこまで子供じゃない。確かに体は赤ん坊だけれど、普段のヤツはそれなりの男だと思うね。だけど……バランスが狂ってどうしようもなくなった時、頼れるのはフランソワーズなんだ」
ハインリヒがにやりと笑う。
「だからこうやって自分から君に会いに来たんだろう?…まあ、やり方は随分とはた迷惑だったがな」
少し瞳を潤ませた彼女が、そっと目元を拭って微笑んだのが分かった。
もう一度ぽんと頭を軽く叩くと、手を下ろす。
ふわりとほのかに甘い香りがした。
「ありがとう、ハインリヒ…」
フランソワーズが顔を上げ、少しだけ色を濃くした青い瞳がハインリヒをまっすぐに見た、その時電話が鳴った。
心臓がどきりと音を立てた。

 

しまった…博士に連絡を入れていなかった。
フランソワーズが立ち上がってすぐに電話をとる。
電話の向こうの少し焦った声がかすかに漏れ聞こえた。
「こっちは大丈夫。ふたりとも…」
彼女がそう言いかけたところで、ハインリヒが受話器を上から奪い取る。
「あ!」
フランソワーズの白い手から抜けて行った受話器を耳に当てた。
『どうしたんだ!?フランソワーズ!??』
盛大に慌てた声が耳に響く。
やっぱりな、そう思ってにやりと笑った。
「悪いな、ジョー。俺たちはここに来てる」
『え?!ハインリヒ!?』
「イワンのヤツに跳ばされたんだよ」
『そこって……フランスのフランソワーズの部屋…だよね?』
「お前は一体どこに電話かけてきたんだ?」
『え、あ、そうか…そうだよ』
「イワンは無事だ。何も起こってもいないし、フランソワーズも無事。予知でも無いようだし、とにかくこちらは落ちついた」
『…じゃあなんで…』
「それはこっちが聞きたいね。あいつはまた眠っちまったし…そっちに帰ることもできない。イワンが目覚めるまでしばらくここにおいてもらうしかないかな」
『……え?』
「博士にも連絡を入れなくてすまなかったと伝えてくれ。じゃあ」
そう言ってにやりと口の端をあげると即座に電話を切った。
「あ!」
フランソワーズが驚いたように声を上げた。
受話器を弄んだまま、ハインリヒが笑う。
「こう言っておけば、明日には迎えに来るさ。ジョーならね」
「もう、ハインリヒったら」
「肝心な時にいなかったんだ。少しくらいはいいだろう。それに、ここにおいてもらうのが誰、とは言ってない。……もちろんイワンのことだが」
フランソワーズが笑う。
「そんな……。二人まとめておいてあげるわよ」
「まあ、メンテナンスも終わってないし、ジョーがそうそうに迎えに来てくれる方が助かるな。見ての通り手ぶらでこっちに来てしまったものでね」
「ふふ、そうね。でも、これで一安心ね。ゆっくりしていって。突然だったから、なんのおもてなしもできなくてごめんなさい」
「十分だ。それに突然来て迷惑かけてるのはこっちだ」
「たまにはパリもいいでしょ?少しは街を歩いて行く?冬の街もなかなか素敵なんだから」
矢継ぎ早にそう言って言葉を止め、少しだけ瞳を曇らせた。
「……イワンのことはまだ少し心配だけれど」
「イワンが心配だったら、一緒に日本に戻ったらいい。……夢で会うよりも、ずっといいだろう?」
誰に、とは言わなかった。
夢でしか会えないヤツじゃない。
「……本当にいじわるなんだから……」
少しだけ頬を桜色に染める。
ーー本当に相変わらずだな。
口の端を少しだけあげて笑う。
「そうだな、せっかくだしパリを楽しんで行くのもいい。イワンが大丈夫そうだったら、少しだけ夜の散歩と洒落込もうか」
「今から?」
「朝まで待っていたら、うるさい迎えが来ちまうぞ」
相変わらずなんだから、とフランソワーズが楽しそうにつぶいた。
「……でも、ハインリヒ、びっくりしたけど久しぶりに会えてうれしいわ」
フランソワーズが笑顔を向ける。ふわりと花が咲いたような優しい笑み。
明日にはきっと、もっと幸せな華やかな笑顔を見せるのだろうけれど……
今だけは独り占めだ。
今だけ、この夜が明けるまでは。

 


The end

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