Le soir

『ホギャア!ホギャア!』
突然邸中に響き渡った声に、ジョーは飛び起きた。
「イワン!?」
反響する泣き声に、咄嗟にベッドから飛び降りスリッパを引っ掛けるのももどかしく、部屋から飛び出した。
おかしい。イワンの時間でもまだ『夜』のはず。しかも眠りに入ってちょうど一週間。たとえ誤差があったとしても、目のさめるような時期ではなかった。
真っ暗な廊下の足元に常夜灯が灯っている。
肌に触れるきんと冷えた空気がまだ真夜中だということを示していた。

イワンの眠る部屋のドアの内側からは、激しい物音が響いていた。
すぐにそのドアに飛びつくように手をかけるが、それはびくともしなかった。
それどころか内側から引っ張られているような気配さえしていた。
ジョーはドアを乱暴に叩く。
「イワン!イワン!僕だよ、ジョーだ。何かあったのか!?」
部屋の中からは、変わらずの大きな泣き声と何かが壁にぶつかる重い音が壁越しに伝わってくる。
しかし、激しい泣き声がするばかりで、テレパシーのようなものは何一つ届いてはこない。
「イワン!」
ガシャーンと高く耳障りな音が響く。
その瞬間、ジョーはためらうことなく力一杯ドアを引いた。
蝶番に鈍い感触を感じ、その途端にドアに対する抵抗もあっさりと消え去ったようだ。
「イワン!大丈夫か!?」
呼びかけながら、上部の蝶番が外れて傾いたドアを壁に叩き付けるほどの勢いで引き開けた途端、真正面になにか光るものを感じた。
次の瞬間、ジョー目がけて正面の中空からまっすぐにガラスの破片が降り注いだ。
「うわっ!イワン!!」
咄嗟に両腕をあげて目をかばう。腕にも顔にも少しばかり鋭利なものを感じたが、腕の隙間から素早く部屋の中を見回した。
足元では小さく高い音がして、床に突き刺さろうとしたガラスが砕けて行く。
その合間をかいくぐり、辺りを探った目の端にイワンのゆりかごが映った。
いつものように浮き上がり、天井近くをまるで波に洗われる船のように漂っていた。
「イワン!」
もう一度部屋中に目を走らせる。
部屋の中のありとあらゆるものが宙を舞い、壁にぶつかっては落ちていく。
大きく割れた窓からは風が吹き込み、水色のカーテンを大きく揺らしていた。
さっきのガラスはこれか、と思い至る。
その影にも目を凝らすが、どこにも怪しい影などは見当たらない。
イワンを脅かす侵入者がいた訳ではなさそうだ。
ジョーは小さく息をついた。
耳をつんざくような激しい泣き声の中、ゆりかごはゆらゆらと漂い、そこを中心に竜巻のようにいろいろなものが浮き上がり衝突しては墜落し、また浮き上がっていた。
そのイワンの声に合わせて、風に煽られていたカーテンもさらに大きく翻っている。強く吹き込む冷たい風が彼の頬を刺す。
「どうしたんじゃ、ジョー!!」
「博士!」
半分外れたドアの影から、ギルモア博士が顔を覗かせた。
途端に宙に浮いていたものが一瞬そのまま静止する。
「イワン!何があったんじゃ」
ギルモア博士がそう声を発した次の瞬間には、それらのものが一斉に入口に向かった。
「博士!危ない!」
「うわっ!」
博士の前に立ちはだかるようにしたジョーの髪をかすめて、重たそうな本がドアの端に勢い良く衝突する。
彼の髪と着ているものの裾が、煽られるように舞い上がった。
「博士、危ないですから、中に入らないでください!イワン!!」
大きな泣き声をあげながら、イワンのゆりかごはさらに激しく不安定に揺れていた。
「どうしたんだ、イワン、なにかあったのか?それともなにか予知を!?」
声を限りに泣き続けていたイワンの声とゆりかごとがぴたりと止まる。
「イワン!」
「どうしたんじゃ!」
ジョーの肩越しに博士がイワンの様子を見つめた。
天井近くまで舞い上がっていたカーテンが、ふわりと定位置に戻り、宙を飛び続けていたランプや本が、ごとりという重たい音を立てて床に落ちて行く。
「イワン!」
博士の呼びかけにイワンのゆりかごがゆっくりと大きく傾いた。
あっと思う間もなく、そこからこぼれるように落ちて行くイワンの小さな体。
「くっ!!」
ジョーが両腕を思い切り伸ばし、飛び込むようにしてイワンの体を抱きとめる。
「イワン!大丈夫か!?」
姿勢を立て直して、かろうじて腕の中におさまってくれた赤ん坊を覗き込んだ。
温かな小さな身体に今の衝撃が影響を与えていないだろうか……。
ジョーははっと気付く。
ーーぷくぷくとした頬に涙が伝っていた。
おしゃぶりをくわえたままの口が喘ぐように動く。
「イワン?」
いつのまにかやわらかそうな髪の間から、イワンの光る目がまっすぐに彼を見ていた。
二人の視線がぶつかる。
「大丈夫かい!?一体どうしたんだよ、イワン」
次の瞬間、再度火のついたように大声を上げ、小さな体をのけぞらせるようにしてまたもイワンが泣き出した。
「イ、イワ…っ」
イワンの体をぎゅっと胸に抱きしめる。そうしなければ、腕の中から転げ落ちてしまいそうだった。
どこからこんなに出せるのかと思うほどの大きな泣き声が、彼の耳に突き刺さるようだった。
目の前が突如として暗くなる。
(…イワン…一体何を……)

遠くで博士の彼を呼ぶ声が聞こえた気がした。




「きゃあっ!!」
高い声と、ごとんと何かを取り落とす鈍い音。
「えっっ!?」
その声に驚いて目を開ける。
そこには、光が溢れていた。ここは?そう思う間もなく、くらりと視界が揺れる。
腕の中では小さな赤ん坊が声を振り絞って泣いていた。
「ジョー!イワン!?」
驚いたような声。
白い手がすぐさま彼に不自然な形で抱かれた赤ん坊を奪い取り、その腕に抱き上げる。
まだ霞のかかったような頭のどこかで、イワンの声が少しだけ小さくなったのを感じる。
そしてようやく自分からイワンを受け取った人の姿を認識する。
「…フ…フランソワーズ……?」
目の前には、亜麻色の髪の女性ーー、言わずと知れたフランソワーズの姿があった。
(ーーーもしかして、これは夢なのかな)
呆然とその場に突っ立ったまま、ちらりとそんなことが頭をかすめる。
そしてはっと息をのんだ。
(それともフランソワーズ…彼女に何か!?)
だからイワンはここに来たのか?
咄嗟にそんな考えが浮かんだが、イワンをいつものように抱き上げてあやしている彼女に何事かが起こっているようにも見えなかった。

「イワン、どうしたの?大丈夫、大丈夫よ」
柔らかな声が耳に心地いい。
ジョーは呆然と立ちつくしたまま、二人の姿を見ていることしかできなかった。
そうしている間にも、フランソワーズは両腕に抱いたイワンを軽く揺するようにして、その顔を覗き込んでいた。
イワンの泣き声がだんだんと収まって行く。
「ほら、もう大丈夫よ」
小さく微笑みかける。
「どうしたの?…何かあった?……怖い夢を見たのかしら?」
優しい声で囁いて、フランソワーズが指先でイワンの頬をぬぐう。そのまま柔らかな頬を撫で、前髪をかきあげるようにしておでこに手をやった。
いつもは隠れて見えないイワンの瞳があらわになると、フランソワーズは微笑んで、その瞳を見つめた。
小さくしゃくり上げていたイワンが、じっとフランソワーズの姿を見返していた。
「ふらんそわーず」
「そうよ、フランソワーズよ……」
イワンの体をそっと胸に抱きしめた。

大切そうに胸の中に包みこんでいる姿は、温かな小さな鼓動を感じられるように、そしてまたイワンに彼女の鼓動を伝えているかのようだ、と彼は思った。
そしてそれが本当にイワンにも伝わっているといいとも思う。
人の鼓動は、赤ちゃんには安心できる音だとどこかできいた。
彼女の力で、少しでもこの小さな子が安心してくれたらいい。
そんなことを口にしたら、この明晰なる頭脳を持ったイワンは怒るかも知れないけれど、きっと自分や博士ではイワンの感じられる安心を届けてはあげられない気がするから……。
フランソワーズだってイワンの母親ではないけれど、こうして見ているとまぎれもない母子のようだ。
なにごとか小さく声をかけるフランソワーズとゆったりと抱かれているイワン、二人の姿はなんだかふわりと薄く光をまとっているかのようにも見え、それがなんだか眩しく感じられた。

ーー自分にもこんな風に抱いてくれる誰かがいたのだろうか。
ちらりとそんなことが頭をかすめ、それを振り払うように小さく頭を振った。
大丈夫。今はフランソワーズがいる。
互いをすこしばかり羨むのは、自分もイワンもきっと同じだ。
そのイワンの表情は少しずつ柔らかくなっているように見えて、ほっとした。
先ほどまでの様子ではイワンの消耗も激しかっただろう。
自分たちでは補いきれない何かを埋める彼女の優しい気持ちが、イワンを包みこんでいるのかもしれない。

徐々に落ちついて行くイワンの呼吸に、フランソワーズは小さく安堵した。
「ふらんそわー…ず」
「なあに?イワン」
イワンのまぶたがゆっくりと落ちて行く。
小さな手のひらがぎゅっと、フランソワーズの少しウェーブのかかった長い髪を掴んだ。
「大丈夫、イワン。私はちゃんとここにいるわ」
頬に軽く口づけをする。
『ゴメンヨ…ふらんそわーず………じょー……』
イワンのかすかなテレパシーが届き、あとは緩やかな寝息が聞こえるだけだった。
フランソワーズはしばらくの間、そのままの姿勢で少しだけ体を揺らしイワンの寝顔を見つめていた。
柔らかな頬に残った涙の跡が、イワンを普通の赤ん坊のように見せていた。
「フランソワーズ」
小声でジョーが彼女を呼んだ。
フランソワーズは無言で人差し指をくちびるにあてると、ソファに置いたブランケットを取ってくれるよう身振りで彼に伝えた。
ジョーはそれを急いで広げて手渡すと、フランソワーズは手早くイワンの体を包み、そのまま寝室へと運んで行く。
その後ろ姿を見送ってジョーは小さく息をつき、そのままソファへと座り込んだ。
「……イワンのヤツ、フランソワーズに会いたかったのかな」



「…びっっっっくりしたわ」
しばらくして戻って来た彼女は、青い瞳を見開いてそう言った。
「いきなり目の前にジョーとイワンが現れるんですもの、本当にびっくりしたんだから」
「いや、うん、ごめん。でも、僕も驚いたんだ。本当に……。夜中に泣き出したイワンを宥めようとしてたら、いきなり飛ばされて」
「何かあったのかと思ったけれど、そういう訳ではなかったみたいね…」
「え?」
ソファに座った彼の髪を、目の前に立ったフランソワーズの白い手がなでる。
「なんだかキラキラしてると思ったら…ガラスの粉なのね?」
よく見れば頬にも、腕にも鋭利なものがかすった傷がある。
「ああ、そういえばガラスが上から降って来たんだったっけ。さっきからなにかちくちくすると…」
腕を上げて自分の身体を見て、はたとその格好に気がつく。
白いパジャマ、しかも裸足だ。
「あ……」
なぜだか顔が赤くなる。
「ごめん、こんな格好だ」
「ううん、だって今、日本は真夜中だもの」
そう言って、フランソワーズがふんわりと笑う。

その笑みにどきりと胸が鳴る。
そういえば、今ようやく彼女の顔をきちんと見た気がする。
久しぶりに目の前にしたフランソワーズは、変わらず綺麗だった。
つややかな亜麻色の髪、白い頬、桜色のくちびる。
そのくちびるが笑みの形をつくっているのは、彼女もこの突然の再会を喜んでくれていると思っていいのだろうか。
ジョーはすこしだけ手を伸ばして、その長い髪に触れようとした。

それより一瞬早く彼女の指が、再度ジョーの髪に触れた。
「こんな大きなガラス破片まで……。怪我は?他にも破片が入っていたら危ないわ。とりあえずシャワーを使って」
有無を言わさぬ言葉で追い立てられると、彼はそのままバスルームに押し込められた。
「着替えとタオル、ここに置くわ。着替えはお兄ちゃんので悪いんだけれど……」
「いや、本当にごめん。助かるよ。ありがとう」
「私、急いでドラッグストアに行ってくる。イワンのミルクもおむつも何もないもの。もしかしたら眠りが浅いかもしれないし。大丈夫、すぐそこなの。だからゆっくり入っていてね。もしイワンが起きちゃったらお願いね」
口早にそう言うと、彼女は大急ぎで部屋を飛び出して行った。

彼はやれやれと小さく息をついて、おとなしくシャワーのコックをひねった。
温かなお湯を浴びると、なんだか急にほっとした気分になる。
(本当に久しぶりなのに、なんだかいつも慌ただしいな……今回は仕方ないけど)
先ほどの彼女の驚いた顔を思い出して、自然に笑みがこぼれた。
あんな顔が見られたから、まあ、いいか。
電話越しではない彼女の声を聞いたのはどれくらいぶりだろう。
とても驚いたけれど、フランソワーズに会わせてくれたイワンには少し感謝する。
それにしても……イワンはどうしてしまったんだろうか……不安と疑問は増すばかりだが、当のイワンはすでに眠りの中。一番イワンを理解しているだろうフランソワーズは、なにか緊急の心配があるようではないと言っていた。
少しの間、様子を見るしかないのかも知れない。
そんなことを思いながら、きれいなボトルのシャンプーを手に取ると、ふわりとほのかに甘い香りがした。
ーーーフランソワーズの匂いだ。
この前会った時と同じ香り。
それだけで、なぜだか急に気恥ずかしい気持ちが込み上げてくる。
以前は同じ屋根の下に暮らしていたのに。
なんだか変な感じだな。この部屋にだって何度も来たことあるのに。
何とも言えない気持ちを落ち着けるように乱暴に髪を洗うと、この気恥ずかしいようなもどかしいような想いも一緒に洗い流してしまうように熱いシャワーを浴びた。
ーーとにかく、今はイワンのことが心配だ。

ジャンの服を借りてバスルームから出てみると、まだ彼女は戻っていないようだった。
髪をふきながら時計に目をやる。
20時30分。
フランスとの時差は8時間だから、日本では4時を回っていたのか。

「大丈夫かな、フランソワーズ…」
ふと見ると、テーブルの上にはまだ手をつけていないパンと、使っていない食器。
床には多分サラダだっただろうものが散乱していた。
「うわ…」
そういえば、ここに来たとき、彼女の小さな悲鳴となにかの落ちる音…。
(これを落としちゃったんだな。夕食、これからだったのか…)
ジョーは手早くそれを片付けた。
ちょっともったいなかったな、と色とりどりの野菜を見て思う。
フランソワーズの料理は、どんなものでもいつもおいしそうだ。
気付けば、いい匂いが部屋に充満していた。
かつての食卓が思い出される。
いつも手早く、時には大騒ぎしながらいろんなものを作ってもらったっけ。
世界各国から仲間が集まってくるから、人数が多くなると本当に大変そうで……でもどこか楽しそうで……。
軽やかな足音とともに、玄関のドアが開く。
「ただいま!」
息を弾ませてフランソワーズが帰って来た。両手に荷物を抱えていた。
「おかえり」
そう言うだけで、彼女がとてもうれしそうに笑う。
「遅くなってごめんなさい」
「いや、僕は大丈夫。イワンもぐっすり眠ってるよ。お風呂もありがとう」
「あ!床も片付けてくれたのね。ごめんなさい」
「こうなっちゃったのは僕らのせいだし。僕ではどうにもできなかったイワンを眠らせてくれただけでも、助かったよ」
「そんなことないわ」
少しだけ彼女が表情を曇らせる。
「でも、君、夕食がまだなんだろ?イワンは落ちついてるみたいだし、寝ちゃっている以上どうすることもできないし…。先に食べた方がいいよ」
「ええ。あの、ジョーも一緒に食べてくれる?今日はシチューなの。ついたくさん作りすぎちゃって……」
彼女が恥ずかしそうに微笑む。
ジョーは「もちろん」と頷いた。
自分にとってはまだ真夜中なのに、先ほどからこのいい匂いにつられてしまったのかなんだかお腹がすいていた。
それに、久しぶりのフランソワーズとの食事。しかも彼女の手料理を逃すわけには行かない。


ゆっくりと食事をした後、フランソワーズの入れてくれたお茶を飲む。
なんだろう、この感じ。
ふわりと湯気の漂ういい香りのお茶だから、というわけでもない。
久々に寛いでいるような気がする。
もちろん博士や大人たちと一緒に食事をしてもお茶を飲んでゆっくりと話したりもする。
でも、なんだか全然違う気がした。
いつもフランソワーズが日本の研究所にいたときはこうしていたし、今だって帰ってくれば同じようにしているはずなのに。
ちらりと視線をあげると、フランソワーズの視線とぶつかって、思わず逸らしてしまう。
なんだかおかしい。……勝手が違う気がする。
そわそわと落ち着かない気持ちを悟られないように、ひとくちお茶を飲む。
「イ、イワン、どうしちゃったんだろう。予知夢を見た時とは、様子が違うし……いつもよりもずっと激しかったような気がする」
「そうね…予知ではなかったみたい…。泣き方もちょっと違ったし、予知ならすぐに私たちに伝えるでしょう?……それに今はよく眠っていて目覚める気配もないもの……」
「うん…。今まで予知夢を見て、伝えないまま寝ちゃうことなんてなかったからね」
ジョーは頷いて、小さく息をついた。
「……」
フランソワーズは何かを考えるようにして、それからジョーを見る。
「あの…これは、私の勝手な想像っていうか…本当のことはわからないわ……。でも…でも多分ね……」
少し迷ったように瞳を巡らせる。
「……イワンはお母さんの夢を見たんだと思うの」
「お母さんの?」
フランソワーズはこくりと頷いた。
「……前にも一度あったの…。私のことを、ママと呼んだわ……ううん、一瞬、間違えたのね。本当のママと」
ジョーは手にしたカップを覗き込むように俯いた。
「そうか…」
「いくら頭脳が優れていても超能力を持っていても、体はまだ赤ちゃんなんだもの、バランスが取れない時だってきっとあるんだと思う。頭脳と心、心と体、どちらも……」
彼女が眉根を寄せる。
普段はそんなことをみじんも感じさせない理知的なイワンだけれど、時々はそんな風に思い出してしまうことだってあるだろう。
私だって、両親や兄のことを思う日はあるのだから……。フランソワーズは思う。
生まれてすぐに改造され、両親と離れてしまったイワンなら、なおさら。
普段感情をコントロールしているだろうからこそ、こんな時には反動が大きく出るのかもしれない。

「……せめて私が、もっと近くにいてあげればよかった。私ではイワンのママの代わりにはなれないかもしれないけれど……それでも……」
「そんなことはないよ」
「そろそろイワンのことも心配だったから、一度そちらに行こうと思っていたところだったの。もうちょっと早く行動していたら、イワンも哀しい夢を見なくてもすんだかも…」
フランソワーズは頭を振った。
「……お母さんの夢が、哀しい夢とは限らないよ」
ジョーが小さくつぶやく。
はっとしたように瞳を曇らせてフランソワーズが彼を見た。
「大丈夫。君がそうやってイワンのことを気にかけていること、イワンだって分かってるよ。距離では近くにいなくても、イワンにはわかってる。……だから、僕まで巻き込んでここに跳んで来た」
フランソワーズが息を飲んだまま、じっとジョーを見つめていた。
「でも、それでもイワンは君になら助けてもらえると分かってる。だからここに来たんだよ。……君に会いたくなったから自分から来たんだ。きっと…」
少し瞳を潤ませた彼女が、そっと目元を拭う。
そしてくちびるをぎゅっと引き結ぶと、ひとつ小さく息をついた。
「……ええ…ありがとう……」
「でも、なにか事件がおこっている訳じゃなくてよかった……。イワンが眠りの途中で泣くのは、大体よくない知らせの時ばかりだしね」
それを見なかったふりをして、彼は極力明るくそう言った。
フランソワーズの目元が緩む。
「そうね…イワンはかわいそうだけど」
「急にここに飛ばされた時は、君に何かあったのかと思って……」
「心配してくれたの?」
「当たり前だよ!……じゃあ、君は?」
「え?」
「……心配だったのはイワンのことだけ?」
フランソワーズの頬が、ふわりと桜色に染まっていた。
「こんなことを言ったら不謹慎かもしれないけど、僕は今、ちょっとだけイワンに感謝してるのに」
手を伸ばして、亜麻色の髪に触れる。滑らかな手触りが少し懐かしく感じた。
フランソワーズがふんわりと微笑んだ。
「僕だって……イワンに負けないくらい、君に会いたかったのに」
「…私だって……すごく…うれしかったの…よ?」
ジョーの瞳が正面からフランソワーズを見ていた。
「ホントはちょっとあなたのこと、考えてたの。シチューも作りすぎちゃったし、一緒に暮らしていた時はおいしいって言ってくれてたし。……しばらく会えなかったし……そんなことを思っていたら、急に目の前に現れるんだもの。……夢かと思った」
「僕もだよ」
ジョーも笑う。
「ちゃんと声を聞いたのも久しぶりだし。こうやって君の姿を見るのも…」
そっと肩を引き寄せて、そのぬくもりを胸に感じる。
ああ、と思う。
フランソワーズの匂いがする。
ほのかに甘くて、でもすっきりとしていて、どこかほっとするような優しい香り。
きっと、今は自分も同じ匂いだ。
「ずっと会いたかった」
彼女の指がぎゅっと彼のシャツの胸元を握り、その胸に白い額をつける。
次に感じる心地良い重み。
柔らかな感触と亜麻色の髪の間からのぞく白い首筋が、これは夢ではなくて現実に彼女がここにいてくれることを感じさせてくれた。
フランソワーズがゆっくりと顔を上げる。
髪がさらりと流れて、少しだけ潤んだ青い瞳が彼を見ていた。
どちらからともなく、かすかにふれあったくちびる。
「……うれしい」
彼女の密やかな声が耳にそっと届くと、心の奥底にまで響いていて、いつの間にか凍ってそこに留まってしまったものたちを溶かしてくれる気がする。
彼はぎゅっと彼女の華奢な体を抱きしめた。
そして、今度は深く深くくちづけした。
ふわりと彼女の香りに包まれる。
この柔らかなぬくもりを手放したくない。
いや、到底手放すことなんてできはしない。

ふと、頭の中を何かがよぎる。
何かを忘れているような気がさっきからしていた。
……そういえば、ここに来てしまったこと、博士に連絡していなかった……心配してるはず…。
イワンの様子だって…。
フランソワーズの柔らかなぬくもりと優しい香りに陶然とする中、はたと気がついた。
「……よく考えたら、僕はどうやって日本に帰ったらいいんだろう?…パスポートも、ない…」
「じゃあ、イワンの目が覚めるまで、一緒にこのままパリにいる、ってのはどう?」
「え?」
そんな魅力的な提案に、すぐに逆らえるはずもない。
……心の中で、博士とイワンに謝罪した。

フランソワーズが笑う。とびきり愛しい笑顔。
もう少しだけ、全部忘れてこの笑顔を見ていたい。
せめて、この夜が明けるまでは。

 


The end

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