また、あの瞳だ。
ハインリヒは、腹立たしげにつま先で床を蹴りつける。
──あの瞳が、俺を苛立たせる。
あの、003の瞳。
出撃をそっと見送るとき、不安が取り除かれたとき、ちらりと見せる009に向けられ
た、あの瞳。
それを見つめ返す009の瞳。ふわりと浮かべる微笑み。
そんなものが、ハインリヒの胸に、言いようのない思いを沸きおこさせる。
そして、今もだ。
作戦会議が終わった途端、フランソワーズがそっとジョーの隣に寄り添う。
小さな声で何かを話し、二人で笑みを浮かべて歩き出した。
あの瞳には、覚えがある。
いつも見慣れていた、あの微笑みと共に。
「あいつら、なにやってんだ。こんな時に」
思わず呟くと共に、部屋を出ていく彼らから無意識に目を逸らした。
「え?…ああ。あの二人か」
その呟きが届いてしまったのだろうか。自分の前にいたピュンマが振り返って笑った。
「最近、仲がいいね。いいんじゃないか?」
ハインリヒの言葉に滲んだニュアンスを、的確に感じ取ったようだ。
ピュンマの目には柔らかな色が浮かんでいた。
「……こんな時だぞ。ブラックゴーストから逃げ切れるのかどうか、自分たちの命を
取り戻すことができるのかどうかの瀬戸際だというのに……」
「……だから、じゃないのかな。003だって、気を張って僕たちと同じように闘って
るけれど、もともとは普通の女の子だったって聞く。支え合って強くなれるってこと
だって…」
「やめてくれ!!」
言いかけたピュンマの言葉を、苛立ちをあらわにしたハインリヒの声が遮った。
「俺は!」
ピュンマが驚いたように、ハインリヒを見返した。
「あいつらを見ていると、壊してしまいたくなる!!」
「……004…?」
「どうせ束の間だ。……すぐに別れはやって来る。俺はそんなものをたくさん見てき
た。いつだってそうだ、これからだと思うとそこで終わる。どうせ、手は届かない。
……それなのになぜ、そんな風に求める?」
吐き捨てるように低く乾いた声で言うハインリヒに、ピュンマが呆気にとられていた。
確かに、どちらかといえばハインリヒは皮肉屋だと思っていた。
だけど、今日は何かが違う。こんな風な乾いた声を聞いたのは初めてだ。
「今、ここで何かが生まれたとしても、そんなのはお互いを哀れんでいるだけだ。そ
して、自分をな!……傷の舐め合いにしか、ならないだろうが」
「どうしたんだい?君らしくもない」
「俺らしい?008、お前はどれだけ俺のことを知っている?そう言えるほど知っ
ているのか?」
一瞬、ピュンマが困ったような顔をして言葉を失った。
しばらく考えてから、小さく頭を下げる。
「……すまなかった」
その言葉を聞いて、ハインリヒは銀色の髪をくしゃりとかき上げた。
「いや…………。……すまない、おかしいのは俺だ」
壁に背を預け、溜息を一つつく。
しばらくの間、右の手のひらで、額を覆うようにして俯いていた。
少し躊躇った後、ピュンマがおずおずと、でも心配そうにその顔をのぞき込んだ。
ふいに、ハインリヒの唇が動く。
「……わからなくなるんだ……どうして俺は今、ここにいる?なぜ隣にあいつがいな
い?」
「004……いや、ハインリヒ」
顔を上げたハインリヒがにっと笑う。
笑っているようで、やはりそれは寂しげだった。
「あいつと一緒に、幸せになるためにやったんだ。俺一人だけ取り残されるためにやっ
たんじゃない。あいつと一緒じゃなけりゃ、意味がなかったんだ……。ここで、こん
な体で……。あいつがいないのに」
ピュンマはただ、俯いていた。
「あいつを最後に抱き上げた腕は、もうこの腕ではない……けれど、あのぬくもりを、
あの感触を覚えているんだ」
俯いたまま、ピュンマは小さく頷いた。
自分の体が自分の意志ではなく変えられてしまったこと、それは衝撃だった。
あの時のことは思い出したいとは思わない。
自分の体の中に、自分のものではではなかったものを見つけたときの、背筋の冷たさ
も、声にならなかった悲鳴も、何もかもが悪い夢のようだった。
その上、ハインリヒは大切な人を失ったと聞く。
その場に自分はまだいなかったけれど、かなりの荒れようだったとも。
そう考えて、きつく唇を結んだ。
「……だから、あいつらを見ていると、壊したくなる。003のあの瞳を見ると、全部
を取り上げてしまいたくなる。何も疑わないあのまっすぐな瞳がそのうち曇ってしま
うのを、俺は知っているんだ。あの瞳は……あいつと同じだから」
ピュンマは唇を噛んだ。
「……あの時、おんなじ瞳をしていたんだ。少し不安そうな、それでもそのむこうに
は光があった。……あいつは俺を信じていた。信じてくれていたんだと思う。なのに、
俺は……裏切ったも同じだ。俺だけが、ここにいる」
「でも」
急いで言いかけたピュンマの言葉を遮った。
「なにもかも、どうせいつか消えてしまう。だったら消える前に、俺がこの手で壊してやりた
くなる。ヒルダにそうしてしまったように」
ピュンマが困り果てているのは分かっていた。でも唇は止まらない。
「009の003を見つめる瞳を見ると、いたたまれなくなる。どうして俺の失ってしまっ
たものを、あいつは持っているんだ、ってな。……分かってる。あいつは悪くない」
「ハインリヒ……」
「言っただろ?おかしいのは、俺だ」
言って、一つ溜息をつく。
「君は、優しいんだな」
ピュンマが呟いた。
「俺が優しい?はん。ピュンマ。お前、今、何を聞いていた?」
ピュンマが穏やかに笑った。
こいつはこんな顔で笑うのかと、ハインリヒは初めて知った気がした。
「ハインリヒは、あの二人が傷ついてしまうことを心配してるんだ。君がその痛みを
知っているから」
「……」
「だから、傷つく前に……。傷つかないように、ジョーとフランソワーズのことを思っ
てる」
ハインリヒは、ふいとピュンマから視線を逸らす。
ピュンマがこっそりと笑っていた。
所在なげに視線を彷徨わせたままのハインリヒが、さっきよりもずっと穏やかな声で
呟いた。
「臆病なんだな。俺は。あいつらが……。ジョーとフランソワーズが、俺と同じよう
になるのを見るのが怖いんだ。そして…」
小さく息を吐く。
「それをまざまざと見せつけられるのが」
声は小さかったが、その言葉は確実にピュンマの耳に届いた。
「だったら、そうならないようにしよう」
ピュンマはさらりと、そう言ってのける。
黒い肌の中で、白い歯が輝いていた。
「絶対に生き延びて、僕たちは僕たちのあるべき姿に戻ろう」
ピュンマの目が遠いどこかを見ているようだった。
逃げ切ることができるのかどうか、そんなことは分からない。今の状況では不可能な
ことのように思えた。
けれど、それは絶対に口に出してはならないことだ。
生き延びる──そう言い続けて自分たちを勇気づけることしかできないことを、全員
が知っていた。
「それに、まだあの二人だってどうなるのか、分からない。……でも、ここで生まれ
た何かを、無駄にはしたくないと思わないかい?」
ハインリヒが唇の端を上げてにやりと笑った。
「……そうだな」
「悪かったな」
「なにがだい?」
もう一度、ハインリヒが唇の端を上げる。
ピュンマが軽く手を挙げた。
ハインリヒの手のひらがそれを打つ。
ぱちんと、小気味いい音が響いた。
「──さあ、時間だぜ」
二人は頷き合い、身を翻す。
ふわりと長いマフラーをひらめかせて、その場を後にした。
今からの闘いですべてが終わる。
そう、信じて。
The
End
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