Joyeuse Saint Valentin
「ジョー、お帰りなさい」
珍しくぱたぱたと足音を響かせて、フランソワーズが玄関先まで出迎えてくれた。
中からは料理のいい匂いが漂っていた。
「博士は無事に発ったよ。あちらについたらハインリヒが一緒だから大丈夫だね」
「そう。よかった。ジョーか私が一緒に行けたら良かったんだけれど」
「予定が合わなかったんだから仕方ないよ。それに、博士もたまには一人で羽根をのばしたいかもしれないし」
ジョーがそう言うと、フランソワーズも笑った。
「でも、空港でハインリヒが待ち構えているんでしょ?羽を伸ばすヒマもないんじゃない?」
「たまには違う所で、違う空気を吸うだけでも違うよ、きっと」
同じようにフランソワーズも頷いた。
「ハインリヒも元気かしら。博士と一緒にこっちに遊びに来たらいいのに」
ふわりと笑みを浮かべる。
それが、今日ばかりはほんの少しだけおもしろくない。
「フランソワーズ、今日の僕はちょっとだけ心が狭いんだ」
「え?」
「だって今日は…」
フランソワーズのたてた一本の指先が、ジョーの唇を押さえた。
そしていたずらっぽい笑みを浮かべたままその腕を握ると、ゆっくりと引く。
「フランソワーズ?」
フランソワーズに導かれるままにリビングに入ると、そこはいつもとは違う空間に仕上げられていた。
テーブルにはいつもと違うテーブルクロス。濃い青色の上に白いクロスが重ねられていた。
銀のカトラリーと品のいい食器が綺麗に二人分、さらに湯気の立つおいしそうな料理がいくつも並べられている。
椅子は3つ。一つは小さな子供用だ。だがイワンの姿は見えなかった。
「フランソワーズ」
「ちょっとがんばっちゃった」
頬を桜色に染めて、恥ずかしそうに微笑む姿が可愛らしい。
「だって、今日は」
言いかけたフランソワーズの唇を、今度はジョーが指先で塞いだ。
ずっと後ろ手に隠していた小さな花束を胸の前に差し出した。
赤い薔薇を中心にしたアレンジメントは、いつもの彼の選ぶ物とは雰囲気が異なっている。
フランソワーズの胸が、どきりと鳴った。
――いつもは、ピンク色を中心とした可愛らしいものを選んでくれるのに。
今日の薔薇はとても濃密な香りがする。
「これは君に。いつもありがとう、フランソワーズ」
「……きれい」
花束を抱きしめるように受け取る。
「博士も出かけてしまって留守だし、たまには僕にもかっこつけさせて」
そう言って反対の手を差し出す。
その手には綺麗にラッピングされた赤いワイン。それから小さな包み。
「本当は食事の後でって思ってたけど,こんな素敵なディナーを用意してくれてるのを見たら……」
ワインはよかったら食事と一緒にって思ってたけどね。
そう言ってジョーが笑う。
フランソワーズは花束をそっとテーブルにおいてワインと包みを受け取った。
大切そうに二つを見つめる。
「ありがとう、ジョー」
青く輝く瞳を細めて、くるりとその場で回ってみせた。
「あけてみてもいい?」
ジョーが頷いてワインを受け取る。
綺麗にラッピングされた箱は、桜色。中からは現れたのは磨りガラスの小さな平たい容器。
手のひらにすっぽりと納まるサイズのこびんの中にうっすら桜色が透けていた。
ケースに書かれた文字を見つめる。
チョコレート色で描かれた見慣れた文字は、自分の故国の物だ。
細い指先が、白いふたをゆっくりとまわす。
びんのフチに近いところまで、濃い桜色が詰まっていた。
「……いい香り。薔薇の香りね、とても好きな香りだわ」
呟くように言ったフランソワーズの手の中の桜色に、ジョーは小指を触れさせる。
硬い表面は、指の温度で少しだけ柔らかくなって触れた小指に緩く絡む。
それをゆっくりと、フランソワーズのくちびるをなぞるようにすべらせた。
「リップバームなんだって」
囁くように言う。
小指の先についたリップバームは、フランソワーズの優しい温度でさらに溶けてなめらかになる。
とろけるようでさらりとした感触が、ふっくらと柔らかなくちびるをつややかに飾って行った。
名残惜しそうにそっと指を離すと、フランソワーズが恥ずかしそうに、でも甘く微笑む。
先ほどまで触れていたくちびるが綺麗に笑みの形を作っていた。
見とれるほど綺麗だと思ったそのくちびるは、すぐにつんとそらされる。
「……ジョーったら、びっくりさせるんだから」
自分も微笑んでみせると、すぐにその表情もほころんだ。
その頬にそっと手のひらを沿わせると、反対の手でその細い肩を抱きしめる。
艶のあるくちびるを見つめると、そっと近づいた。
そしてリップバームの感触とその香りを自分のくちびるで感じる。
するりと滑らかな感触と、ふわりと香る薔薇の香り。
長い髪を指に絡めてフランソワーズの吐息ごと、すべてを確かめるようにくちびるを重ねた後、ゆっくりと離す。
「――本当にいい香りだね」
フランソワーズの頬が、手の中のこびんと同じ色に染まっていた。
青い瞳がゆらりと揺れて、ジョーから恥ずかしそうに視線をそらした。
「あ」
肩を抱いたままジョーが小さく声を上げる。
フランソワーズが怪訝な顔で、ジョーの茶色の瞳を覗き込んだ。
「この香り」
亜麻色の髪に頬擦りするようにしてフランソワーズの華奢な体を抱きしめる。
「ジョ、ジョー?」
「君の髪の香りと似てたんだ……これを見付けた時に、フランソワーズの匂いだって思って」
「そうね、少し似てるかも。好きな香りだもの」
「いい匂いだ」
自分のくちびるにも移った香りと、フランソワーズの髪から鼻をくすぐる香りに包まれているようだった。
とても安心できる、大好きな香りだと思う。
「やっぱり、今日のジョーはちょっといつもと違うみたい」
腕の中で身じろぎして、フランソワーズが囁いた。
「…へん、かな?」
フランソワーズが小さく頭を振った。
「だって今日は…」
そう言って小さく笑い合った。
「私が先にチョコレートを渡すつもりだったのに」
「君の国では男は花を贈る日だって」
フランソワーズがぎゅっと、ジョーの背中に腕をまわした。
リップバームを持っているせいで手のひらを添えることはできなかったが、それでも気持ちはジョーに伝わったはずだ。
もう一度やわらかなくちびるを、ジョーのくちびるにふれあわせる。
花の香りのリップバームが、二人の温度でゆっくりととろけていく。
「――ありがとう、ジョー」
ジョーは今までとは打って変わって、はにかむように笑った。
「ごめん、せっかくの食事が冷めちゃうね……だから食事の後にしようと思ってたのに」
「もう!」
フランソワーズの青い瞳と、赤く染まった目の縁が美しいと思った。
「…でもイワンがお腹をすかせてるわ。もう食事にしなくちゃ」
――きっとイワンはすべてを悟っていて、仕方ないとばかりに見ないフリをしてくれているんだろうな。
ジョーは心の中で呟いた。
でも、このロマンチックなテーブルに並べられた椅子は3つだ。
きちんとイワンの分もある。
だから、今だけ、このくらいは多めに見て欲しいな。
今度ははっきりとイワンに向けてそう思った。
きっとイワンは自分の心を読めているのだろうから。
「じゃあ、デザートは期待していてね」
耳元でそう囁いて、フランソワーズが離れて行った。
大切そうにリップバームの蓋を閉めると、テーブルの上の花束を持ってするりとキッチンへと向かう。
「ジョーはイワンを連れてきてくれる?もうきっとお腹ぺこぺこのはず」
声だけが聞こえた。
「え」
――さっきあんなことを思っただけに,少しだけ気まずい。
小さくため息をついた。
「わかったよ」
こちらをのぞいたフランソワーズの手には、先ほどの薔薇の花束。
きっと今から自分たちの食卓を飾るのだろう。
そして深い赤い色のワイン。
その後は……。
ジョーは小さく笑みを漏らす。
イワンに呆れられても、怒られても、今日だけは許してもらおう。
だって今日は……。
――恋人のための一日、バレンタインなんだから。
The
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