トントン、トントン。
何度目かのノックの音で、ジョーはベッドの上に起きあがった。
あれ?……僕はいつ、ベッドに入ったんだっけ。
自分の姿を見て、昨日の服のままであることに気がついた。
トン……
遠慮がちなノックが、急に途切れる。
ジョーは慌てて、ベッドから飛び降りた。
かすかな、軽い足音が部屋の前から聞こえる所だった。
ジョーはドアノブを掴むと、大急ぎでドアを開ける。
「あ…」
ドアの方に視線を向けたまま、その前から立ち去ろうとしている彼女の姿があった。
「フランソワーズ」
「ジョー、こんなに朝早くにごめんなさい」
そう言われて壁にかけた時計をちらりと見る。
まだ6時をいくらか回ったところだった。
「あの…大丈夫だった?」
「もちろんだよ」
他の住人を気にして、フランソワーズを部屋に招き入れる。
どうやら、まだ誰も起き出してはいないようだ。
素直に部屋に入ってから、フランソワーズは頭を振った。
「そうじゃないわ。昨日は、ずいぶん飲まされていたでしょう?」
あ!
ジョーはそうして、やっと思い出した。
久しぶりに全員の集まった大晦日。
懐かしい顔ぶれと、おいしい料理。
それぞれが持ち寄った、世界各地の土産物。
そうなれば辿る道は一つだった。
おかげで、いつ部屋に戻ってきたのかすら記憶にない。
「その様子じゃ、私のとの約束も覚えてないわね」
軽く笑って、彼女はカーテンをあけた。
「え…っと……」
「いいの。多分、覚えていないだろうと思っていたから。だから、今、来たのよ」
「え?」
「一緒に朝日を見ないかなって思って」
少し上目遣いに自分を見る彼女に、ジョーは微笑みを返す。
「もちろん!」
そう答えてから慌てて付け加える。
「といっても、この格好じゃ……」
今、自分の着ているくしゃくしゃのシャツでは、その誘いにはふさわしくない。
「すぐに支度するから、フランソワーズは部屋で待っていて。迎えに行くよ」
フランソワーズは小さく頷いた。そして小さく付け加える。
「みんなを起こしちゃ、悪いから……。静かにね」
ジョーは笑って、再度、もちろんと頷いた。


彼女の部屋の前に立って、そっとドアを叩く。
思ったよりも、廊下にその音が響いて、ぎくりとした。
彼女の部屋のドアが開くのを待った。
なんとなく後ろめたいような、わくわくするような、そんな気持ちのまま。
誰かがこの音に気づいて、顔をのぞかせたらどうしようか。
フランソワーズはその誰かも一緒に誘うんだろうか。
それとも……。
なんだか子供の頃のようだ。
小さな秘密と、それがばれてしまっては困るような、でも、誰かに知って欲しいような、そんな気持ち。
そんなことを考えているうちに、彼女の部屋のドアが静かに開いた。
オフホワイトのコートを羽織り、手には小さめのバッグを持っている。
「行きましょう」
彼にだけ、聞こえるような小さな声でささやくと、先に歩き出した。

玄関のドアをそっと開け、外に出る。
その途端に、冷たい風が一気に二人を取り囲んだ。
当然のことながらあたりは暗く、物音一つしない。
しんとした空気が、まだあたりが寝静まっていることを感じさせた。
ただ、彼女の唇から漏れる息が白く見える。
「やっぱり朝は寒いわ」
白い両手を擦る様子が、なんだか可愛らしい。
思わずジョーは、手を差し出していた。
フランソワーズは、ちょっと驚いたように彼を見る。
「あ」
自分でもどうしてそんな風にできたのか、分からない。
慌てて手を引っ込めようとしたところを、彼女の手に止められた。
少しひんやりとした彼女の手が、自分の手の上に乗せられた。
その手を包み込むように、そっと握る。
フランソワーズが柔らかく笑った。
「急がないと、日が昇っちゃうわ」


二人はそのまま、坂を下っていった。誰もいない静かな海岸。
流木を見つけて、その上に二人で並んで座った。
寒いだろうから…と、暖をとるために拾った小枝に火をつけることは、彼女に嫌がられた。
寒くないの?と聞けば、何も答えず頭を振るだけだ。
仕方なく、彼は彼女の肩を抱き寄せて、二人で寄り添う。
彼女は思いだしたように、足下に置いたバッグの中からフリースのブランケットを取り出した。
二人でそれにくるまって、じっと海の方を見つめ、そして空を見つめた。
冬の澄んだ空気に、たくさんの星が瞬いている。
その中で、寄せては返す波の音だけが響いていた。

ゆるゆると空の明るさが増していく。
見上げた真上の空はまだ深い紺色を残しているのに、じっと見つめる水平線のあたりは、もう明るい水色だ。
星の姿が、一つ一つ消えていく。
それを眺めているうちに、その空は、徐々に明るい紫色に変わっていた。
たなびく雲が同じ色に染まり、さらに明るい色へと、また変わっていく。
彼女の青い瞳が、ちらりと彼の腕の銀色の時計をのぞき込んだ。
彼女は何も言わなかったが、それが日の出の時刻であることは、彼に伝わった。
二人はじっと息を詰めて海と空との境界線をみつめていた。
「あ」
彼女の小さな声と共に、ゆっくりとオレンジ色の光があたりに広がった。
その光が、ゆらゆらと揺れる海にも輝いている。
急に、遠くで鳴く鳥の声が耳に飛び込んできた。
いろいろなものが起き出してくるような気さえした。
「……初日の出だね」
「ええ」
「おはよう…かな」
「日本では、あけましておめでとうございますって言うんじゃないの?」
二人は微笑み合う。
ジョーが、のぼり始めた太陽に向かって、手を合わせた。
それに習うように、フランソワーズも手を合わせる。
しばらくそうしていた。
ジョーが隣を見ると、彼女は祈りの姿勢を崩さないまま、じっと太陽をみつめていた。
「……どうして太陽にお祈りするのかしら」
「…どうしてかな。考えたこともなかったけれど……。フランソワーズは何を祈った
んだい?」
「いつもと同じこと」
フランソワーズが笑う。
「また明日の朝日も見ることができますように…と、そう願わなければならない人が
いなくなりますように」


「今年一番の光は、あの朝日からもらいたかったの。あなたと一緒に」
そう言って、火をつけられることのなかった小枝に、ちらりと視線を移した。
「……私ね……。ううん、私たちって言うのが正しいのかもしれない」
フランソワーズが小さな声で言った。
「まだあなたが009になる前、でも私が003だった頃」
ジョーは、彼女の横顔を見た。
「ジェットと、のぼっていく太陽を見たわ」
「え?」
「いつも、いつも、生き延びて明日のぼる太陽を見ようって、励ましてくれた。太陽を見て、今日もこの太陽を見ることができたと、心からほっとしていた。……また死ぬかもしれない一日が始まるのにね」
フランソワーズが小さく笑った。
「私たちが、博士達にとっては大切な実験結果だなんてこと、知りもしなかったから、いつ殺されるのか、いつこのテストというものに失敗して死んでしまうのかと……びくびくしていたの。ジェットと一緒にテストを受けるようになったのはそんな時」
彼は黙ったまま、彼女の言葉を待つ。
「夜間活動のテスト。ジェットと私は一緒に、夜明けを待っていた」

「私、あの頃は何もかもが怖かった。すべてに怯えて泣いてばかりいたわ。その時もそう。ジェットから少し離れたところで泣いていた。夜の闇も、その闇の中でもきく私の目も、空を飛ぶアメリカ人も怖かったから…。泣いても仕方がないのに泣くことしかできなかった。自分がどうなるかなんて分からなくて、自分がどうしたいのかなんて、もっと分からなかった」
かすかに震える声に、彼は彼女が泣いているのかと思った。
だが、彼女は一瞬ごとに変わっていく空を見ていた。
「その時にね、ジェットが言ったの。『こんなどうしようもないテストなんてさっさと終わらせちまって、明日も同じように、のぼる太陽を見てやろうぜ』って……。私にはそれがきっかけだったわ。……これから自分がどうするのかを考えるための。そして、ジェットが私を脅かす恐ろしいものではなくて、信頼できる仲間だと知るための」
彼女の手が、ブランケットの中の彼の腕にそっと触れた。
彼のもう片方の手が、その白い手を包み込む。
「それから、私は後から来た仲間に、同じことを言ったわ。ハインリヒにも、ジェロニモにも、大人にも……。ジェットは笑っていたけれど、やっぱりおんなじ気持ちだったと思う。みんな一緒に朝日を見ようって……。
いつだったか、ハインリヒがきいたのよ。どうして生き延びられた一日を喜ぶ夕日じゃなくて、また闘いが始まる合図である朝日の方がいいんだ?って」
その時を思い出しているのか、それとも今のジェットを思い出したのか、彼女が小さく笑った。
「見えなくなって消えちまう日よりも、新しくやって来る日の方がいいに決まってるだろ…ですって」
「ジェットらしいや」
ジョーがいうと、フランソワーズも微笑んだ。そして、ふと表情を引き締める。
「それから、あなたが来た」
よりそったフランソワーズの小さな吐息が耳元にかかる。
ジョーは黙ったまま、小さく頷いた。
「あなたと見た朝日は、もっともっと厳しい状態だったわよね。だから、多分その話はできなかったと思う。……本当のことを言うと、朝日が昇るたびに、今日は生きていられるだろうかって、今日はみんなの足手まといにならないかって、不安だった」
「そんなこと!」
「何度も明日の太陽は見られないかもしれないと思いながら、やっぱり何度も見なくちゃいけないって思っていたの。だから、今、こんなに静かな気持ちでのぼっていく太陽を見ているのって不思議な感じ。……今、あなたが隣にいてくれることもね」
フランソワーズが微笑む。
だが、ジョーはそれには答えず、足下の貝殻をつま先で掘り返していた。
「どうしたの?ジョー」
「……どうして君は、今それを話してくれたの?」
「……どうしてかしら」
フランソワーズは視線を空へと向ける。
澄んだ空の色が美しい。
「あなたには……どうしても、知っていて欲しかったから……かな」
少し照れたように、フランソワーズが笑った。
それに、またジョーが俯く。
「……私、なんか変なこと、言った?だったら……ごめんなさい」
「ちがうよ、君が謝ることじゃない。僕がちょっと……情けないだけ」
フランソワーズが訝しげにジョーを見上げた。
「情けないんだから、言わないよ」
ジョーは、フランソワーズから視線を逸らせた。


───君に言えるわけがないじゃないか。
一緒に朝日を見て、君を励ましていたのが、僕じゃなくてジェットだったのが悔しいだなんて。
僕の知らない君を、他のみんなが知ってるのが悔しいだなんて。
ジェットはたくさん、本当にたくさん君を知ってることが悔しくて、なんだか胸の内がざわざわするなんて。

───言えるわけない。
僕までも、今、太陽を見上げて、なんだか穏やかな気持ちになったことなんか。


「じゃあ、私ももう一つ祈ったことは内緒にする」
「もう一つの祈り?」
「ジョーが内緒にするんだから、私も内緒。でも、私がいつか話したら、ジョーも話してくれる?」
ジョーは笑って頷いた。

もう、太陽はしっかりと海から姿を現していた。
空から注ぎ、波に映る金色の光。彼が見つめる彼女の瞳の中にも、同じ金色の光が輝いていた。
「あなたと一緒に、今年初めての朝日を見ることができて、よかった。ありがとう、ジョー」
ブランケットの中で、軽く唇と唇を触れ合わせた。
ひんやりと冷えた唇。お互いの白い息に微笑みあった。
「僕の方こそ、誘ってくれてありがとう」
彼女の優しいぬくもりが、なんだか嬉しかった。
少しの間、そうしていた。


空は充分に明るくなっている。
彼らが時々見上げるその空を、悠々と横切っていくカモメたちの声も増えている気がした。
「そろそろ帰ろうか。寒くなっちゃっただろ?」
心を残しながらも、そう聞いてみる。
「そんなことないけれど……。でも、そろそろ帰らないとイワンが起きてるかもしれないわ。ちょうど昼の時間に変わるころだから」
笑ったフランソワーズが立ち上がった。
ブランケットを手早くたたむ。その時だった。

「おおーい!」
遠くで呼ぶ声がした。
「なんだよ、お前ら、抜け駆けだぞ」
研究所の方から、ぞろぞろと歩いてくる姿が見える。
「なんだよ、もう日がのぼっちまってるじゃねえか」
「ちょっと遅かったわね」
フランソワーズが笑う。
「みんな、大丈夫なの?」
ジェット以外、いつも誰よりも早く起きているジェロニモまでもが、眠たそうに目を擦っている。
「あれだけさんざん飲んだくせに、ジェットのヤツ、妙に元気なんだ」
ピュンマが呟く。
「さっき、全員の部屋のドアを殴って、叩き起こしたんだぜ」
「どうせ起こすのなら、もうちょっと早くして欲しかったな。日が昇る前に」
ハインリヒも溜息混じりに呟いた。
「起きなかったお前らが悪いんだろ?……まあ、いいや。みんなで、のぼっていく太陽を見られたからな」
フランソワーズが笑う。
それにつられるようにして、ハインリヒもニヤリと笑った。
「それに、もう…。あの時とは違うしな」

「ああ!もう、なんだか損した気分アル!」
張々湖がジェットの方を、じろりと見る。
「ジェット、来年はきちんと日が昇る前に起こすアルよ!」
「そうそう、これじゃ、また今から飲み直しだ」
「まだ飲むのかよ」
「こんな中途半端な時間じゃなぁ、……仕方あるまい、我が輩とっておきの酒を出すとしよう」
「来年はジェット、寝られないな。どう考えたって日の出前になんて起きられないだろ?」
ピュンマが笑いをかみ殺しながらジェットに視線を向けると、隣にいたジェロニモも大きく頷いた。
「うるせえな。じゃあ、来年はここで飲んでりゃいいじゃねえか」
「俺はゴメンだね。こんな寒いところなんて」
「じゃあ、絶対来年は起きろよ。オレが起こす前に!」
「はいはい、わかってるよ。『来年も同じように、ここで一番の太陽を見てやろうぜ』だろ?」
ジェットがにやりと笑う。
「抜け駆けしやがったジョーに言われたくねえな」


朝の冷たい空気が、なんだか心地いい。
心の中で、ジョーはもう一つ、太陽に祈る。
来年も晴れて、みんなで日の出が見られますように。
澄んだ空に、太陽が明るい光を放っていた。


The End



*お正月に思い立って書いたものです。
 お礼のコーナーに置いていたものを手直ししました。
 少しでも楽しんでいただけたら、うれしいです。


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