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「ねえねえっ!」
「マリコ?どうしたの?そんなにあわてて」
部屋の中で雑誌をめくっていたアユミの所へ、ルームメイトのマリコが息せき切って、飛びこんできた。
「きいてくれる?アユミ!やっと私にも春がきたよ〜!」
「なになに?どうしたの?もしかして、かっこいい人でもいたの?」
手にしていた雑誌を放り出してアユミが近寄ってくる。
マリコは靴を脱ぐのももどかしく、玄関を上がったところでペタンと座り込む。
「うんっ!バイト先の先輩でね。私が入る前からずっと海外取材とかとにかく取材で飛び回ってたんだって!電話取ったことくらいはあるけどさ。それで、やっと日本に帰ってきたらしいのよ。ほんとにかっこいいの!もう理想ぴったりって感じ!ちょっとハーフっぽいんだ!」
一息にそこまで言うマリコに、目を輝かせたアユミが詰め寄った。
「うそー!みてみたいな。マリコって面クイだから」
「なによお、アユミには、ちゃんとアキラくんがいるじゃない」
「それとこれとは別。かっこいい人なら見てみたいじゃない」
アユミの言葉にマリコは苦笑した。
「彼女がいるかもしれないけどさ。あんな素敵な人、女がほっとかないって」
「えー?マリコらしくないじゃない。弱気」
「それだけ本気ってこと」
マリコはくちびるをとがらせる。
「ふうん」
アユミは笑いを含んだ目で、マリコを見た。
マリコはそれに気づく様子もなく、きらきらと瞳を輝かせている。
「それでねっ。島村さんっていうんだ。その人。なんかちょっと陰があってね、すごく素敵なの。目があったときにニコっとかしてくれて、もう心臓爆発〜!バクバクいっちゃって」
頬を染めて一生懸命話すマリコを、アユミは眩しく見つめた。
こんなマリコを見るのは、本当に久しぶりだ。
「もうそばにいるだけでドキドキなんだよ。笑ってくれたら宇宙まで飛んで行けそう!」
「誰もマリコを止められないわけね」
「どんなコが好みかな。髪、伸ばそうかな。もうちょっと女の子らしくしたら見てくれるかな。そうよ!明日のバイト、何着て行こう」
マリコが前髪をつまみ上げながらつぶやいた。
「そうねえ」
「デートなんかできちゃったらどうしよう。もう明日からバイト、力はいっちゃうよねっ」
「ちぇ、いいなあ。そういうドキドキ、したーい」
アユミが口をとがらせた。
「カレシがいるヒトの台詞じゃないわよ」
「んー。もちろんアキラは別格だって」
「いいなあ、呼び捨て…ジョー…なんちゃって」
頬を染めたまま、夢見るような表情のマリコを見て、アユミがニマっと笑う。
「ふーん、マリコのとこの雑誌社の島村ジョーね。覚えとこっと」
「アユミ、協力してよね」
「モチロン」
「いろいろ想像しちゃうな。デートできたらどこ行こう?ロマンチックに花火見にいったりとか」
「そうそう、夕暮れの遊園地もいいよね。黄昏の観覧車とかさ。茜色に染まった空を二人きりで見るの」
アユミも指を組み合わせて、芝居がかった言い方でマリコをからかった。
だが、マリコはその言葉にもうっとりとしている。
アユミは小さく笑った。本当にこんなマリコは久しぶりだ。
「女の子の憧れよね……。アユミ見ててね!あたし絶対あの人とつきあちゃうんだから!」
「うん、がんばんなよね!マリコ!」
「彼女がいたって振り向かせて見せるわ!」
さっきとは一転して力強く宣言するマリコにアユミは驚いた。
いつもは、こんなに積極的に出ることのできないマリコなのに。
これだけのパワーを出させるその人に、なんだか興味が湧いてきた。
「マリコってば、ホントに一目惚れなんだね」
「だって目が合ったくらいで心臓爆発しそうなくらいの人に初めて会ったんだもん!」
「明日、見にいこうかなあ」
ちらりとマリコに視線を送って、アユミが言った。
「きてきて!編集長には見学っていっとくから。いつものことだし」
「ホント?じゃあ見てやろうじゃないの。その島村さんとやらを」
「うん。ホレないでよ」
「あたしにはアキラがいるもん」
「ちぇっ、のろけちゃってさ!」
マリコは手近にあった雑誌をアユミに投げつけるふりをした。
「あーあ、私も早くそんな風に言ってみたいな」


「あのーこんにちはー」
翌日の午後、学校帰りにアユミはさっそくマリコのバイト先を訪れた。
「はい?」
一番入り口近くにいた青年が振り返る。
どこか憂いを帯びた、茶色に見える瞳。
しかしその瞳がアユミを捕えた瞬間にぱっと明るくなる。その印象の変わりようといったら。
(うわっ、なに?この…美形は………まさか…)
「あ、あの…池端マリコは…」
「ああ、マリコさんのお友達ですね。ちょっと待っていてください」
彼はにこりと微笑むと、奥へと入っていった。
それを、呆然とアユミは見送る。
(うそーっ!!あれは…マリコでなくてもホレるよ…まだ心臓ばくばくいってる…)
「アユミ!」
「あ、マ、マリコ…」
出てきたマリコがアユミを中に招きいれると、彼は軽く会釈して奥に戻って行った。
「ね…今のが噂の……?だよね。チャパツのヒト」
「チャパツなんて品のない言い方しないでよ。島村さんのは栗色っていうの!やめてよ、その辺に歩いてる人と一緒にしないで」
こそこそと話す。
だが、目は先ほど彼のいたあたりをさまよっていた。
「…マリコでなくてもヒトメボレするかも。あたしだってドキドキしちゃったよ。こりゃライバル、多そうじゃん」
「でしょーっでももう名前、覚えてもらったんだよ。あたしのほうが年下だからとかなんとかいってマリコって名前のほうでさ」
「力はいるのも頷ける。彼女いるかどうかきいたの?」
「聞けないよー!やっとすこしお話できるようになったのに…」
「そっか。でもお話しできただけ大進歩じゃん」
「でしょでしょー!やっぱりハーフなんだって。あの髪も自毛なんだって。キレイな色だよね。染めたってあの色でないよ。国籍は日本なんだって。でもその話題は触れてほしくなさそーだったから聞かなかったけど。私ったら気のきくオンナ」
二人で部屋の隅でこそこそとささやきあっていると、いつの間にか両手に荷物を抱えた、中年の男性が入ってきていた。
「お?アユミちゃん来てたの?」
「あ、編集長、おかえりなさい」
「なんだアユミちゃんも島村くん見に来たの?ミーハーだなあ」
笑いまじりに編集長がもらす。
それだけ見物人が多いということだろうか?
アユミが苦笑している所に、編集長もつられたように笑った。
「マリコちゃん!」
奥から女性社員の高井が呼んでいた。
「はーい」
マリコがすぐに答える。
「ちょっとジョーくん手伝ってあげて。あら、アユミちゃんいらっしゃい。アユミちゃんも手伝ってく?見にきたんでしょ?」
意地悪く笑って二人を招きいれた。
「マリコ、あたし、帰ろうか?仕事の邪魔しても悪いし」
「いい、今日はいてよ。キンチョーしちゃってヘマしそうだから」
いつになく不安げな表情のマリコに拝まれて、気にしながらもアユミもついていく。
高井がそんな二人を見て、笑みをこぼした。
「マリコちゃんは、ジョーくんがお気に入りだからねえ」
「やだ、高井さんったらそーゆーコト大きい声で言わないでください。テレちゃう」
頬を染めてうれしそうに俯くマリコ。
「まー、否定しないんだ。そーよねえジョーくん、かっこいいもんね」
「高井さん、島村さんって彼女いるんですか?」
マリコに代わってアユミがたずねた。
多分マリコでは、それを訊くことができない。
「さあ?あんまりそういう話は聞いたことないわ。マリコちゃん、けっこうホンキ?」
「……ホンキですっ!」
「ジョーくんって見た目と違って結構ジミよ?それになんだか謎の多い人だし。それでも?」
「派手なタイプの人って苦手なんです。……でも……モテそうですよね」
真剣な眼差しとその勢いに、高井は苦笑した。
このくらいの若い女の子の力にはかなわない。
「まあねえ。今日もいろんな人が見にきてるわよ。しかも女ばっかり」
「やっぱり。私みたいなの、相手にしてくれるかなあ」
「ま、がんばんなさい」
ポンと肩を叩かれてマリコが顔を上げた。
「はい!あたって砕けろ!ですよねっ」
マリコの後ろで、高井とアユミが小さく笑っていた。

「ジョーくん、入るよ」
「高井さん」
「助手を二人捕まえてきたわ。ポジの整理ならマリコちゃんが得意だから」
「助かります」
まぶしい笑顔を返されて、なんだかクラクラする。
「じゃあ、マリコさん」
「なに堅苦しく呼んでるのよー。かわいい後輩なんだからもっと親しみをこめなくちゃ、ねえ。マリコちゃん。アユミちゃん」
ぱっと高井の顔を見る。ニヤリと笑う彼女に、うんうんと力一杯頷いて見せる。
「え…と、じゃあマリコちゃんとアユミちゃん。こっちのポジをお願いします」
「そうそう、よろしくね」
マリコはぽーっとしていて、とても使えそうもない。
(あちゃー、失敗したかな?)
高井は一抹の不安を覚えながら資料室を後にした。
まあ身もちの固い彼だからこそ、マリコたちをけしかけたのだけれど。



二人は黙々と写真を整理していた。
ライトボックスに照らし出される、真剣な面もちの二人の姿をジョーはちらりと見る。
(大学生かな?ボクらのあの年頃は…戦い三昧で…こんなふうにバイトしたりしたことなんてなかったな)
そんな当たり前のことをつらつらと考えていく。
まさに闘いの中にいた、そんな頃。
今、こうしてここにいることの方が、不思議なぐらいだった。
「あのー、島村さん?」
「え?あ、はい」
ふいにかけられた声に、現実に引き戻される。
「これは?」
「ああ、フランスに分類しておいて」
フランスという言葉に、ふと彼女を思い出す。
彼女もこのくらいの時は、やっぱり戦っていた。
一番明るいときを戦いですごすだなんて、なんだか哀しい。
こんなふうに平和にすごしている女の子たちもいるのに。
同じ、女の子なのに。
「マリコちゃんたちは……大学生?」
「そ、そうです!すぐそこの」
オフィスのすぐそばにある大学の名前を告げる。
「アユミとはルームメイトなんです」
「いいね。一緒に住んでるんだ。仲がいいんだね」
「は、はいっ!とっても」
その何だか初々しい感じにジョーは思わず微笑んだ。
「なんて、時々はケンカもしますけれどね。結局、なんだか一緒にいる羽目になるんです」
「ちょ、ちょっとアユミ!」
アユミがマリコを横目で見ながら言うと、マリコがあわてて服の裾を引っ張った。
ジョーは、それを見て笑う。
「そういう友達は、大切だよね」
二人は顔を見合わせた。小さい時からずっと一緒だった。
なににもかえがたい友達だ。それを分かってもらえるのはうれしい。
マリコは心の奥底をくすぐられたような気がして、彼に笑顔を返した。
ますます、この先輩のことが気になっていった。



それから数日後…
ますますマリコの熱は高まっていった。
ジョーへの気持ちも、最初の頃のミーハー的な騒ぎから本格的なものへと変化しつつあるようだ。
彼の本質が見えてくれば見えてくるほど、深みにはまっていくのが自分でも分かった。彼の謎めいた部分……憂いを含んだまなざし。
どれをとってもマリコの周りにいる男の子とは違っていた。
そして、そんな面を見つける度に、想いは深くなっていく。
彼は優しい。
都合のいい勘違いをしたいくらいに優しい。
遅くなれば当然のように送ってくれるし、落ち込んでいれば目敏く見つけて励ましてくれる。
少し自信をもってもいいのかなと、自惚れてきていた。
そう思わせてくれる何かが、あるような、そんな気がしていた。

「島村くん、今日の予定は……とマリコちゃんたちも一緒にいたのか」
マリコが編集長に会釈を返した。
「今日はフランスから来ているバレエを見にいくんですが……」
「え!?ホントですか?」
「私達も行くんです」
マリコと、今日も入り浸っていたアユミが顔を見合わせた。
「ミンナ行くんじゃないか。珍しいもので一致するねえ。取材で竹宮くんが行くんだがチケットが余っていてね。キミたちにあげようかと思っていたんだが……。じゃあボクと高井クンも見に行こうかな。そうそう、それで、その後レセプションがあるんだけど、取材に協力してくれないかい?」
その言葉を聞いて、女の子二人は目を輝かせた。
「行きます!」
「島村くんは?できれば君にも行ってもらいたいんだけど。君、語学に強いから」
「僕は……連れが二人いるんですけど…」
「いいよいいよ、連れてきなよ。二人くらいなんとかなるから。大体ああいうレセプションは制限あってないようなもんだから」
彼はしばらく考えていたが、
「ではお言葉にあまえて」
とにっこり笑う。
女の子二人が宇宙にとんでいったのは、言うまでもない。



夕刻、社の面々は連れだって会場まで出かけた。
入り口付近で二人の男性とジョーが合流する。
言わずとしれたギルモア博士と張大人だ。
「この後のレセプションに潜りこめることになりましたよ。僕は半分仕事だけど」
「わしらもか?あの子がウチに帰ってくるのは明日じゃからな。1日早く会えるのは楽しみじゃな」
ギルモア博士が嬉しそうに目を細めた。

その様子を遠巻きに見ている社員たちがいた。
それに気付いて、ジョーが、慌てて二人を前に押し出した。
「ああ、紹介します。ボクが働いている雑誌社のみなさんです。こちらはギルモア博士と張々湖大人」
二人が会釈した。

お互いに簡単に挨拶をすませると、それぞれの席へ散っていく。
すでに、開演時間が迫っていた。
「なんや、フランソワーズが帰ってくるいうのにまたモテとるアルか…」
ぼんやりと彼の姿を見つめるマリコを見て、張大人が博士につぶやいた。
「そのようじゃな」
あきれたように博士がジョーを見る。
「え?なんですか?」
二人は、小さく苦笑した。
この様子では、マリコの気持ちになど微塵も気づいていないだろう。
「ジョーも相変わらずアル」

ジョーたちの席はとてもいい場所だった。
これを贈ってくれたプリマの気持ちが伝わってくる。
偶然だがそのすぐ近くに、マリコらはいた。
「島村さん、かっこいいねっバレエに興味あるなんてなおさらだよ」
「でも……」
そういうマリコの声は暗かった。
「あの人たち、なんだろう?どうしてあんなバレエなんか見そうもない人たちと一緒に?だれか知ってる人が出てる……とか」
「マリコ、人を外見で判断するのは感心しないよ。あのおじさまたちだってバレエの愛好家かもしれないでしょ?この公演って人気があって、チケットもソールドアウトだっていうし」
「……うん、そうだね……」
なんだか歯切れが悪い。
アユミが、その様子になんだか不安を覚えていた。
「マリコの考えすぎ。最近島村さんとマリコ、仲いいじゃない。知ってる人がいたら言うんじゃないの?」
「そうだよ、ね……」
そんなことを二人が話しているうちに、徐々に灯りが落ちて、たくさんの拍手が鳴り響く。
ゆっくりと音楽が流れ始めた。
幕が上がる。
途端に二人は舞台の上の、幻想的な世界の中に入り込んだ。
ここは湖畔の森。
神秘的な湖の前で男性が逞しく、力強く踊ると、それに答えて純白の衣装をつけた美しいプリマが軽やかに舞う。
しゃんと伸びた背中、しなやかな身体。
「キレイ…すばらしいわ…」
どこからともなく、そんな呟きや溜息が聞こえた。
はかなく、のびやかに。時に力強く踊る姿。
夢の様な舞台だった。
しなやかな指先がのびて最後の一節を踊り切ったとき、会場中がしんと静まり返った。
ゆるゆると幕が下りるのと同時に、じわじわと拍手の波がおこり始める。
もう一度幕が開いたときにはもう割れんばかりの拍手の渦だった。
晴れ晴れとした顔の踊り手たちが、優雅にお辞儀する。
マリコにもアユミにも、涙が滲んでいた。
こんな素晴しい舞台には滅多にあえることがない。
無理をしてチケットを取った甲斐があったというものだ。
プリマはなんといっても憧れのあの人だから……。
彗星のごとくあたわれた希代のバレリーナ。

たくさんのアンコールの後、夢から醒めたように会場の灯りがついた。
波がひくように観客達が出口に向かう中、彼に声をかけられるまでしばらく二人はそこでぼんやりと幕の下りた舞台を見つめていた。
立ち上がってしまうと、ようやく現実に帰ってこられた、そんな気がした。
そして徐々にうれしさがこみ上げてくる。
この後のレセプションがとても楽しみだった。
あの、プリマを間近で見ることができるのだから。



面々が訪れたレセプション会場は、いろいろな人であふれていた。
女性たちはこういう席に来るんならもっとおシャレしてくるんだったと嘆いていたが、そのきらびやかさには目を奪われているようだった。
「なあ、島村、フランス語できるってホントか?」
竹宮が振り返ってきいた。
「あ、はい。会話程度なら」
「あとで通訳を頼むよ。通訳が急病で来れなくなって困ってたんだ。それでお前に頼めないかと思って、編集長に連れてきてもらったんだよ」
「構いませんよ。誰の取材ですか?」
「もちろん、美しいプリマだよ。あんな美しい人、そうそうお目にはかかれないしな。話せるだけでも役得だと思って……」
「ああ」
ジョーはにっこりと微笑んだ。
「彼女なら、日本語できますから心配ありませんよ」
「え?……彼女って……おまえ……」
「友達なんです。昔からの」
「紹介しろ!いや、してくれ、じゃなくて、してください……オレ、ファンなんだよ」
「うそ………ホントですかぁ!?私もファンなんです!」
アユミまでもが興奮した声で言った。
彼は軽く頷いた。
なんだかこそばゆいような、妙な気分だ。
自分のことではないのに、それ以上にうれしかった。
「なあにが、友達だ。ジョー?」
ふいに聞き慣れた声がした。
「よう、博士、大人、久しぶり」
「ジェ、ジェット…!?どうしてここに?」
彼は驚いた声を上げた。
「別に、ただ遊びに来ただけだよ。たまたまハインリヒのヤツに会いにドイツに行ってたらよ、ついでにフランソワーズにも会っていこうって話になって……」
「で、フランスに行ったら今度は日本に行くっていうから、驚かそうと思って彼女に付いてきたってわけだ」
途中から言葉を受け取ったのは、そのハインリヒだった。
「邪魔だったかな」
意味あり気にニヤリと笑って見せる。
「…ハインリヒ……い、いや、驚いただけだよ。久しぶり」
彼は笑みを浮かべて仲間の肩を叩いた。
「だけど、お前がここにいるとは思わなかったぜ」
「ああ、フランソワーズも何も言ってなかったしな」
「仕事の都合で急に来ることになったんだ。二人こそ、どうやってこの中に?」
「ま、そこはそれ、どうにでもなるんだよ」
二人が加わって、さらににぎやかになったその中で、マリコだけが暗い顔をしていた。
だが、今日の彼はそれには気付かない。
他に気を取られていることが分かって、マリコは余計に哀しい気分になる。
今日の彼は変だ。何だか浮き足立っている感じがする。
いつもだったら、こんな時は……。
そこまで考えたとき、会場がざわめいた。

本日の主役の登場だ。
踊り手たちが色とりどりのドレスを纏って登場する。
男性ダンサーたちも、さらに凛々しく見えた。
けれど、やはり彼にとってだけでなく、一番輝いているのは彼女だった。
そこだけ空気の色まで違って見えた。
視線がどうしてもそこに向いてしまう。素通りできない何かが、彼女にはあるようだった。

会場に全員が集まり、一通りのおきまりの挨拶も終わり、会場は自由なムードに包まれていた。
彼らはその片隅で、舞うように歩くダンサー達を見ていた。
「おい、島村、ホントに大丈夫なんだろうな」
竹宮が緊張した面もちで、ジョーを振り返る。
「大丈夫ですよ。こっちの友人とも仲良く日本語で話しますよ」
側にいた仲間たちが、小さく笑いながら頷いた。
「ホントにホントだな」
「………僕、呼んできましょうか?」
苦笑しながら提案する。
竹宮の頷きを見て、あたりを見回す。
すぐに彼の目が止まった。
やはり彼女は、この人ごみの中でも輝いていた。
「オレ、行ってくるわ」
そばにいたジェットが素早く彼女に近寄っていった。
後ろから軽く肩を叩く。
彼女の驚いた顔。
ふりかえって、さらに驚いた様に口に手を当てていた。
それからすぐに極上の微笑み。
ジョーは軽く手をあげて彼女に答える。
「……き、きれいだ……」
竹宮のつぶやきに、心の中で同意する。
彼女はまっすぐに彼のほうへ早足で、でも優雅に歩いてくる。
「どうしたの?ジョー!どうしてここにいるの?」
「久しぶり……舞台見せてもらったよ。チケットありがとう。キレイだった」
彼女が魅力的な微笑みを返す。
おもわずドキリとするような、魅力的な微笑みだった。
「ありがとう。自分でもよく踊れたと思っているの」
その青い瞳が、まっすぐに彼の瞳を見つめていた。
ジョーの瞳も、また彼女の青い瞳の奥をのぞき込んでいた。
思わず笑みがこぼれる。
「遠くで見ていてもきれいだったけど、近くで見るとなおきれいよねぇ」
「うん、本当に今までに見たことない綺麗な人!」
「あの瞳、見た?すごくきれいなブルー!同性ながらほれぼれしちゃうわ。踊っているときはもちろん、こんなパーティで立っているだけでも光ってる」
そのすぐそばで、ため息まじりの声で同僚たちがささやいていた。
「人間じゃないみたいにきれい。フランス人形みたいよね。プロポーションもいいし」
その言葉を耳にしたとたん、彼女の表情が少し曇った。
「フランソワーズ」
ジョーが小さく名前を呼んで、指先を彼女の白い指先に触れさせる。
他意はないのだから気にするなと伝えたかった。
それを察した彼女は、すぐにもとの笑顔に戻る。
ジョーは、ほっとしたように、彼女にむかって小さく微笑んだ。
今度はその彼を、ちょいちょいと竹宮がつつく。
「おっと、そうだった。フランソワーズ、こちら、僕が今勤めている雑誌社の竹宮さん。キミに取材を申し込みたいんだって」
「竹宮です」
「フランソワーズ.アルヌールです。よろしくお願いします」
優雅にお辞儀をされて、竹宮は赤くなる。
竹宮が、それでも体制を立て直して取材を始めるのを、彼はぼんやりと見ていた。
竹宮の質問に一つ一つ丁寧に答えていく彼女に、フランソワーズらしいなと思いながら、久しぶりに見る彼女の横顔を見つめていた。
ドレスアップした彼女はいつもと違って見える。
もちろん何を着ていても似合うのだけど、今日はその美しい部分が際だっているようだった。
何が違うのかは、よく分からなかったのだけれど。
彼女がそばにいるというだけでおもわず微笑んでしまう彼を、マリコが寂しげに見つめていた。
それも、今日の彼には届いていない。
「博士!」
取材を終えた彼女が駆け寄って、博士の頬にキスをする。
竹宮がさも残念そうな顔で、それを見送っていた。
博士や大人と二言三言会話を交わすと、その後、彼女がさりげなく彼のそばに身を寄せた。
仲間たちはその光景を微笑んで見ていた。
久々に会った恋人たちなのだから少しくらい気を利かせたいところだが、それは明日からだなと心の中で思う。
ここではなかなか難しい。
それに、今日はこのみんなとの再会を喜びたい。
それとは逆に微笑みながら会話を交す二人を見て、マリコの心はますます重たくなった。
あんな表情の彼は、いままで見たことがなかった。
いつもよりももっともっと優しく、甘い表情。
憂いを帯びていたはずの瞳は、喜びで輝いているように見えた。
「アユミ…やっぱり…あの人………」
「マリコ、わかんないって。久しぶりに会う友達って言ってたじゃない」
気休めだと思っても、アユミはそう言わずにはいられなかった。
高井が複雑な表情でマリコを見ていた。



「島村さん、あの人とお友達なんですよね」
他に呼ばれて彼女が近くにはいなくなったころ、いつの間にかそばに来ていたマリコが、小さな声で聞いた。
「そうだけど?どうかした?マリコちゃん」
「あの……」
心臓が爆発しそうなくらいだった。
これ以上は怖くて聞けない。
もしもあの人が……そう思うと、いたたまれなかった。
(こんなに…こんなに好きなのに…知れば知るほど好きなのに…)
涙が出てくる。
「わ、どうしたの?」
「なんでもありません」
ちょっとだけ勇気出して……言って見ようか。
彼の恋人の名前を聞く前に……。
(やっぱりダメ!)
マリコは思わずその場を逃げるように走り出した。
アユミが心配そうに見ていた。
それから、そのジョーが困った顔してるのもマリコの目の端にうつった。
(ごめんなさい!!)
それを振り切って、テラスの方に走って向かう。
「マリコちゃん!?」
「島村さん、お願い、追いかけてあげてよ」
「え?」
アユミの言葉にジョーは戸惑った。
「ダメだよ、お嬢さん、こいつ、そういうのニブいから」
ジェットが日本語で話かける。
ちらりとジョーに視線をよこし、口元に笑みを浮かべた。
「ジョー、行ってやれよ。とりあえず……こっちはオレがゴマかしといてやるから。女の子を泣かせっぱなしはよくないぜ。しっかりしろよ」
彼は驚いたように振り返った後、マリコの後を追った。
やはり放っておくことなど、できなかった。
「マリコ……本気だから!」
追いかけるジョーの背中に、アユミがそう、声をかけた。



思わず走り出してしまったけど、きっと困ってるだろうな。ただの同じ職場のバイトというだけの女の子に泣かれてしまって……。
私ってバカ……。少し頭冷やそうっと。
俯きながら、赤くなった目を押さえてテラスに出てみると、そこには先客がいた。
きれいなドレスの彼女。
思わず踵を返そうとした時、声をかけられた。
「あら?……さっきジョーと一緒にいた方ね?」
キレイな声だった。
その外見とピッタリあった優しげな声。この人が……。
ああ、彼の名……呼び捨ててる。
それがあまりに自然で、なんだか羨ましくて。
一つ息をついて、改めて彼女に向き直った。
「はい。え、と……はじめまして……池端マリコです」
「フランソワーズ・アルヌールです。よろしく」
途切れがちな挨拶にも、にっこりと微笑まれる。この人が島村さんの……。
「あなたもバレエをやっているのね。立ち方がとてもキレイだわ」
「えっ……はい…やってます。どうしてもこの舞台見たくて…すごく、素敵でした」
「ありがとう。今日は本当にいい出来だったの。バレエをやっている人にそう言ってもらえるのはうれしい」
ほんのりと頬を染めた彼女は、私の目から見ても綺麗で可愛らしい。
「私……あなたに憧れてて」
話しているうちにどんどん哀しくなってくる。
何を取っても、この人にはかないそうもない、と気分が落ち込んでいた。
涙まで滲んできてしまった。
「……」
彼女は何も言わなかった。
それが余計に悔しい。
余裕に感じられる。
「……ジョーが……好きなの?」
彼女がポツリと聞いた。小さな声で。
私はただ頷くことしかできなかった。
「そう……。私も……ジョーが好きなの」
その何だか変な言い方に、はっと顔を上げた。
彼女は微笑んでいた。
「恋人なんじゃ…ないんですか?」
「そう思いたいわ……。ううん、そう思ってる。でも……。私達は、出会い方も……出会ってからもとても特殊な環境にあったから。みんな、なにか支えが欲しくて。……あなたのようには彼のことを想えないかもしれない……」
「え?」
「……ううん、ごめんなさい。なんでもないの」
寂しそうに笑う彼女に、なんだか釈然としないものを感じる。
「追い詰められなければならない者だけが分かるのかもしれない。……もっと…もっと普通にであっていたらって思うときがあるの。もっと普通に出会っていたらどうなっていたかしら。私は……本当にジョーを愛しているけれど」
普通の出会い方って?
特殊ってどういうこと?
追い詰められなければならないって……?
「ごめんなさい。私、何言ってるのかしら。あなたに話すことではなかったわ」
「そんな……」
「ごめんなさい。あなたがあんまりひたむきだったから。でもきっと……私が誰かに聞いて欲しかったのね。私の一人言だと思って忘れて」
「そんな……教えてください。もっといろいろなこと!島村さんのこと…。こんなこと、それこそあなたにきいちゃいけないのかもしれないけど……島村さん、何だかいつも哀しそうで……謎めいていて…そこがとても素敵なんだけど……あたし、そーゆーとこもとってもスキなんだけど…」
言っていて赤面してしまう。
なんでこの人にこんなこと言ってるんだろう。私。
そんなの言わなくたって恋人のこの人の方が、もっともっと知ってるのに。
「……謎……ね」
すっと彼女は視線を上げた。
思わずその視線を追いかける。
あの人が……いた。
テラスの入り口に。
彼女は少し微笑んで、私の肩をポンと叩いて、彼の横をすり抜けて行った。
彼がちょっと彼女の方に振り返って……、でもすぐに私の方を見てくれる。
どういう意味なの?
私に……どうしろっていうの?
それって余裕ってこと?
彼を信じているから、二人っきりになっても心配しないってこと?
それって……私のことなんかまったく相手にしていないってこと?
「………マリコちゃん?」
「島村さんっ!あのっ、私、あなたのこと……」
島村さんの言葉をあわてて遮って、ぎゅっと目を閉じた。
「好きです!ホントに!」
「あ………」
一瞬唖然としている島村さん。
そろそろと目を開けると、少しだけ困ったように笑っている彼がいた。
「……マリコちゃん、ごめん…その……僕には…大切な人がいるんだ」
「あの人…ですよね。恋人なんですよね?」
「……僕はそう思っているけど……あっ…ごめん」
「いいんです。すぱっと振ってくれた方が、キズが浅くていいんです」
ちょっと涙出ちゃったけど、それでいい
「なんだかおかしいですね。二人ともそんなこと言ってる」
「フランソワーズも?」
彼は少し笑った。
「僕のことを特別に想ってくれたマリコちゃんにこんなこというのって変かもしれないけど、僕は彼女をとても大切に想ってる……たぶん自分のことよりも」
「それって、とってもとっても愛してるってことですね」
「そう…だね。だれにも渡したくないと思うし、哀しませたくない。いつも笑っていて欲しいんだ。それに……」
島村さんは、そこで少し息をついた。
「僕がダメなんだ。彼女がいないと……僕は僕でいられない」
私は思わず苦笑した。
その時の島村さんの表情は、私たちが見たことないくらい優しかったから。
「なんだか、フラれたうえにノロケられちゃうと哀しいのもどうにかしちゃいますね」
ちょっとだけ拗ねた口調で言ってみる。
島村さん、どんな顔してるだろう。
「ごめん。キミを傷つけてるね。でも…僕らは……キミたちとはずっと一緒にはいられない者だから」
「どういう……ことですか?さっきあの人も、おんなじこといってた。もっと普通に島村さんと出会っていたらって」
「そうか」
ふとした表情が私の心をつき動かす。
やっぱりまだ好きだ。
「命をかけた戦い。大げさでなく、本当に命のやり取りをした……僕らは仲間だから。極限まで追い詰められた中からの僕らだから……」
どこか遠くを見るような目で、島村さんが私を見ている。
ううん、本当は私を見ていない。
「どうして?なんで?戦いってなんですか?」
「それは、キミが知ってはいけない。知ったらキミはこちら側に来てしまう。僕は君やアユミちゃんがうらやましかった。仲のいい友達と一緒に暮らして、大学にいって勉強して……平和な世界。そういったらきっと怒ると思う。でも僕たちから見れば……。君たちの生活は僕らの過去を思い出させてしまうんだ。でもそれは君たちのせいじゃない」
「あのガイジンさんたち、みんな仲間なんですか?」
「そう、僕らは……仲間。かけがえのない仲間だ」
「あの人…も……?」
「か弱そうに見えて、結構強いんだ。でもこれは秘密」
島村さんが唇に人差し指をあてた。
ちょっとかわいい仕草。
もしかして……これって……すごいヒミツ?
……からかわれているわけじゃないよね?
そんなこと、する人じゃないし。一体何者なの?
島村さん……だからそんなに哀しい瞳をする瞬間があるの?
あなたたちに何があったの?
ききたい気持ちがぐるぐるまわる。
でも……彼はきかない方がいいって、きかないで欲しいって言ってる。
だから、私はきかない。本当にこの人のことが好きだから。
「これはマリコちゃんの胸の内に閉まっておいて。僕を特別に想ってくれてありがとう。うれしかった。でもきっとキミは僕らの存在する意味を知ったら幸せになれない」
さりげなく過去形にされてるところが少し寂しい。それに……。
「島村さんはずるい。幸せかそうじゃないかは私、自分で判断します。いくら島村さんでも私の幸せはわからない。違いますか?」
「そうだね。ゴメン。……なんだかあやまってばかりだな」
島村さんが、また苦笑いしている。
私はあわてて答える。困らせるつもりじゃなかったから。
「いいんです。私もあの人にも憧れてたから。踊る者として」
「そうか、マリコちゃんもバレエをやってたのか」
少し驚いたように私を見る。
「そうです。だから島村さんがバレエを見にいくって聞いたときうれしかった。わりと男の人ってこういうの、見ないでしょう?だから。でも、それって……」
「彼女の舞台だからってのもあるけど、僕もバレエに少しは詳しくなったんだ。ちょっと観るのが楽しくなってきたところ」
「じゃあ、こんど私の。私達の舞台も見てくれます?」
「もちろんだよ」
私はほっと微笑んだ。
フラれたけど、今まで通り普通に話せるのは、とてもうれしい。
でも……さっきの彼女の態度が気になっていた。
「あの……」
「ん?」
「こんなこと、聞いたら失礼なのかもしれないけど……。さっき、あの人、何か言ってました?私の肩をたたいて、島村さんとすれちがった時……」
「どうして?」
「え……こんなこと、言ったら嫌われちゃうかもしれないけど……もしかして私のこと、これっぽっちも相手にされてないのかなと思ったら、なんか哀しくなっちゃって。だって、あれって私に告白しろって言ってるようなものでしょう?恋人なんだから当然かも知れないけど、余裕で、私みたいな小娘、相手になるはずないって思われちゃったのかと思って……」
少しばかり語気が強くなってしまったことくらい、許してくれるよね?
「ああ……マリコちゃんはそういうふうに受け止めたんだね。ちがうよ。フランソワーズはね、決めるのは僕だって言っていったんだ。だからよく考えてって」
「え……」
私、自分のことしか考えてなかったのに……。
なんだかまた涙が出てきた。
「そんな…こと…どうして言えるの?………もしかしたら自分がふられちゃう可能性だってあるのに……私だったら、そんなこと、絶対言えない。……私を選んでっていっちゃう。……私以外見ないでって……」
「そういう人なんだ。彼女」
あまりに島村さんがうれしそうに微笑むから、つられて私も笑ってしまった。
ホントに好きなんだ、あの人のこと。
彼女のことを話している時の島村さんは、私のまったく知らない男の人だった。
優しい瞳をしている。
「いつもそうだから。僕の気持ちを分かってないのかもしれないね」
「あはは、私、全然かなわないや。でもホントに好きでした。この気持ち、忘れません」
ぺこりとお辞儀をしてしまった。
こんな気持ちになれたのって、島村さんのおかげ。
たとえフラれても今の自分は好きになれる。
「明日から、また普通にお話ししてくれますか?後輩として」
「もちろんだよ。僕のほうこそ、ありがとう。ごめん」
いい人だー。
さすが、この私が好きになっただけある。
私にも、こんな風にきちん話してくれる。そんなところがとっても好きでした。
そう心の中で話しかけて、私は息を吸った。もう、大丈夫。
「やだ、あやまらないでください。私、あの人のことも好きだから……バレエのこととか、もっとお話しすればよかった。最近のアコガレの人だったんです。彼女の踊りがみたくて今回の公演、チケットとったんです。かなりお財布はさみしくなっちゃったけど」
「そうか……じゃあ、僕の家に来ればいい。フランソワーズもこの公演が終わったらしばらく休暇にはいるから、家に帰ってくることになってるんだ。君さえよかったら一度、彼女に会いに来ればいいよ」
「…え……そんな……悪いし……」
「遠慮することないよ。今いた仲間たちもしばらくいるつもりみたいだし、うるさいかもしれないけど。ああ、僕は博士と一緒に暮らしているから」
屈託のない笑顔を向けられると、どうしても心臓がどきどきと高鳴ってしまう。
「いいんですか?えと……フランソワーズさん、迷惑じゃない?嫌がったりしない?」
「だって彼女に会いに来るんだろう?じゃあ、後できいとくから。それでいい?」
せめてものことをしてくれようとする島村さんの気持ちが、痛いくらい伝わってくる。なんだかうれしくて涙が出た。
フった相手をこんなに気づかってくれるなんて。
私は笑い泣きの変な表情で頷いていた。
やっぱり、好きだ。まだ……
でも、ここで終わりにしよう。片思いだったけれど、とってもいい恋をした。
心からそう思えた。
そうして、そんな気持ちにさせてくれた島村さんにむかって、ありがとうと小さくつぶやいていた。


あとでアユミに聞いた話だと、テラスから戻ってきた彼女はとても不安そうな落ち着かない様子でこちらのことを気にしていたそうだ。
ちらりと視線を走らせてみたり、なにか迷っている風だったって。
彼女も普通の人なんだ。
余裕なんかじゃなく、島村さんのことホントに好きなんだと思った。
なんだ、二人とも自信なさそうにしていたけれど、結局の所、強く想い合っている。
きっと、私だけじゃなく、他の誰も入ることのできないくらい。
島村さんはホールに戻るなり、私には目線で微笑んで、彼女の元にまっすぐと行ってしまった。
後ろから何か囁いて、振り返った彼女と微笑み合う。
それが映画のワンシーンみたいで……。
こんな綺麗な失恋なら、いつか自慢できるね。
私はもう一度だけ、二人の姿を見て、視線を逸らした。
すぐそばに、アユミがそっと立っていてくれた。
ホールからの去り際、彼女が私にそっと近寄って来て言った。
「ありがとう、楽しみにしてるわ」
それだけで、私にはなんのことだかわかる。
私が小さく頷くと、彼女はその綺麗な桜色のくちびるを私の頬に軽く触れさせて、離れていった。
ふわりといい香りがした。
私は彼女が触れていった頬を押さえて、少しの間呆然としてしまった。
……やっぱり、彼女にはかなわないや。


The End

 


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