□■■■
「……来週、帰ろうと思う」
突然言い出したのはハインリヒだった。
それまで好き勝手に話しながら、食後のお茶を楽しんでいた仲間たちは、その言葉にしんと静まり返った。
「そろそろ戻ってみようかと思うんだ」
ハインリヒが一口コーヒーを口に運んで言った。
「……そうだな。そろそろいいかもしれねえ。オレもそうするわ」
軽く手をあげたのはジェットだ。
「ジェット…ハインリヒ……」
ティーカップをソーサーに戻して、フランソワーズが呟いた。
「みんな考えてんだろ?これからどうするかって」
他の仲間たちもそれぞれ顔を見合わせ、躊躇いがちに頷いた。
「ちょうどいいさ、オレも戻る」
「……そうだね。僕も考えていたよ。そのうちって……」
ピュンマが小さな声で言う。
「ああ……そうだな」
隣に座っていたグレートも、どこか遠くを見るような顔をして呟いた。
同じように張々湖がピュンマを見る。
「ブラックゴーストから逃げ出したばっかりの時は、こんなこと考えることもできなかったからね」
ピュンマは少し笑ってぐるりと視線を仲間たちに向けた。
「ようやく自分たちが生き延びるための戦いは終わらせられた、と言える状態にはなったし、ここに博士の研究所も構えて落ち着いて来たところだ。戦いのない生活がなんとなく居心地が良くなって「いつ」とはなかなか決めきれなかったけれど、ずっと頭のどこかで考えてた」
その言葉に、ジェロニモも黙って頷く。
「別に急ぐこともないさ。ここで過ごすのもいい。……ただ、俺は帰ってみようと思っただけだ。ジェットは今、俺に便乗しただけだろ?」
「ちがいねえ。……でもオレもちょっと考えてた。そろそろニューヨークの空気を吸いたくなってきたところだぜ。日本もなかなかいいけどよ」
ハインリヒとジェットが目線を合わせて、にやりと笑った。
ギルモア博士が、少しだけ寂しそうな瞳で二人を見る。
「そんな顔すんなよ、博士」
「ああ……すまんの」
慌てたように目をしばたかせ、ぎこちなく笑ってみせた。
「そうじゃな。お前さんたちも、故郷のことも気になるだろう。ちょうどいい機会かもしれんな」
「博士、俺たちだって、まだ博士のお世話にならなきゃいけないことがたくさんある。会えなくなるわけじゃありません」
眉を下げてやはりしょんぼりとしていたが、ハインリヒの言葉に小さく頷いた。
「わかっとるよ、ハインリヒ」
少しだけ困ったように唇に笑みを浮かべて、ハインリヒが立ち上がった。
「じゃあ、あと一週間くらい日本を堪能するとするか」
「そうだな!」
ジェットも勢いよく立ち上がる。
「ジョー、こっちにいるうちに日本の見どころ、紹介しろよ。よく考えたら日本に結構いるのに、全然知らねえや」
ジェットが笑う。
「ハインリヒ……ジェット……」
ジョーは二人を見つめ、博士と同じように小さく頷く。
「そうだね。みんなでどこかに遊びに行こうか」
今までそんなことする余裕なんてなかったもんな、ジェットの言葉に頷きながらも、隣に座るフランソワーズが俯き青い瞳を揺らめかせていることが重く胸に引っかかっていた。
■□■■
「みんな…元の場所に戻って行くのね」
それぞれが自分の部屋へと戻った後、ぽつんとリビングのテラスに佇むフランソワーズの姿を見つけ、ジョーは静かにその隣に並んだ。
遠くを見つめたまま、フランソワーズが小さく呟く。
「うん」
「今までの場所に」
「……うん」
満天の星が、やさしい光で二人を包み込んでいた。
ジョーは小さく息をついた。
――君も行ってしまうの?
その一言だけを、どうしても口に出すことができない。
「やっぱり、会いたい人や戻りたい場所があるのね」
――……君には会いたい人がいる。だから、その大切な場所に戻りたいよね。
喉元まで出かかってくる言葉を、ジョーは飲み込んだ。
それを口にしてしまったら、その通りになってしまいそうで。
深い夜、高い月淡い星の中で佇む彼女はその中に溶けてしまうようだった。
「ねえ、ジョー……。私は、どうすればいいと思う?」
目を伏せて、フランソワーズが聞いた。
不意に吹いた風が、彼女の亜麻色の髪をふわり舞い上がらせる。
「えっ…」
頭の中を、いつかのハインリヒの言葉が駆けめぐる。
あのとき、彼女はいなかった。いや、彼女のいないときに話したのだから当然だ。
フランソワーズはじっと俯いたまま、彼の言葉を待っていた。
「僕は……」
そう言い淀んで唇を噛む。
「……君に会いたい人はいない?」
小さく言葉にした。
フランソワーズは何も言わず、ただぴくりと肩を震わせた。
それに気付いてしまったら、ますますそれ以上何かを言うことはできなかった。
「……君の、思うように」
彼女の口元が少しだけ寂しそうな笑みを浮かべ、くるりと背を向けた。
『俺たちは、もう会わない方がいいんだ』
――あの時、ハインリヒはそう言った。
その場にいたジェットとピュンマも、はっとしたようにハインリヒを見た。
「一緒にいない方がいい」
「……」
ジョーは視線を足下へと落とす。
「会わないですむのなら、それに越したことはないんだ」
なんだか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「……ああ、あんたの言いたいことは、何となくわかるぜ」
ジェットがうなずいた。
「お互いの顔を見れば、オレは自分がサイボーグであることから逃れられなくなる」
ハインリヒは何も言わなかった。
「ブラックゴーストにこの体にされてから今まで、生きるためにやってきた事に後悔してはいない。でも、思い出したいわけじゃないんだ。ジョー、おまえだってそうだろう?」
ジェットがちらりとジョーを見た。
「何のために、ブラックゴーストから逃げ出したんだ」
誰に答えを求めるわけでもなく問う。
「…もちろん、奴らの人殺しの道具にならないため…だけど、本当は僕たちは、自分の人生を取り戻すために戦ったんじゃないのか?自分のいた場所に、家に帰りたいってそれだけで」
ジェットの問いを引きついだピュンマの言葉に、誰もが小さくうなずいた。
「ブラックゴーストから逃げだし、どんな苦難もみんなで切り抜けて、生き延びることだけを考えていた。毎日毎日生きていることで精一杯で、他のことを考える余裕もなかった」
誰もがなにも言わなかった。
「だけど、今は違う。僕たちは自由だ。今からどうするか、どうしたいか……それを考える」
ピュンマが言葉を切る。
「だったら…お互いのことは忘れた方がいいのかもしれない。これから、僕たちはこの能力をどうしていったらいいのか、まだわかっていない…この体のことを忘れて、ただの人間として、今までと同じように生きていくのなら、僕たちはお互いのことを忘れなくちゃいけない……前に進むために」
「ピュンマの言うとおりだ。……ましてや、俺達はともかく、今まで通りの生活をさせてやりたいやつだって、いるだろう」
ハインリヒのその言葉に、ジョーの脳裏にはふわりと笑う優しい姿が蘇る。
少しの沈黙の後、ハインリヒが小さく皮肉めいた笑みを浮かべた。
「会わない方がいい、互いのことは忘れた方がいいなんて言ったって、いやでもまた会うことになっちまうかもしれないしな」
ジェットも同じように唇の端を上げて笑った。
ジョーじっと俯いたまま考えを巡らせる。
ハインリヒの言うように、自分はいい。
もとより大切なものがあったわけでも、帰りたい場所があるわけでもなかった。
……でも、彼女は……。
生き延びる戦いの中で、彼女の存在は自分を支えてくれた。
死を覚悟したあの時だって、胸の中には彼女の姿があった。
今ではなによりも大切だと、そう思える。
だけど……。
一つ息を吐いた。
「俺は一度、故郷に戻る」
ハインリヒが、静かにそう言った。
「……潮時かもしれねえな」
ジェットの言葉が胸に落ちた。
フランソワーズ、君はどうするのだろうか。
――きゅっと唇を噛んで、息を詰める。
海からわたる風の中、後ろ姿のフランソワーズの小さな肩が震えているようにも見えた。
その肩に手を差し出すこともできず、ジョーはただ俯いて手のひらを握りしめる。
帰りたい場所、会いたい人、それが彼女の故郷にあるのなら……。
こんなことは忘れて、忘れることはできなくても心の奥底に封印して、以前のように暮らせたら……。
いつか話してくれた彼女のすべてだったバレエと、美しいパリの街。
できることならその中に戻ってほしい。
そこで、本当の笑顔で踊っていてほしい……そう思う気持ちは確かにあった。
でも……。
「……君は、どうしたいの?フランソワーズ……」
こんなことしか言えない自分に心底腹が立ったが、自分の密かな願いを口にすることはできそうもない。
その場でじっとしたまま答えないフランソワーズの細い背中はすこし頼りなげで、思わず腕を伸ばして自分の胸に閉じ込めたくなる。
だめだ、と心の中でつぶやく。
まだフランソワーズに自分の気持ちを告げることもできていない。
今、そんなことを告げてしまったら、もうフランソワーズを送り出すことなんてできなくなってしまう。
彼女の幸せを願うのなら……そんなことを告げてはだめだ。
必死でその気持ちを押し止め、伸ばしかけた腕を下ろした。
ジョーは静かに踵を返す。
今の自分にできることは、彼女の決断に笑って答えるだけだ……。そう信じていた。
■■□■
夜遅く、小さなノックの音がした。
ベッドに寝転んでいたハインリヒが顔を上げる。
――大方ジェットの奴だろう。酒でも持って来たのかもしれない。
そう思って立ち上がったが、それにしてはノックの仕方がいつもと違っていた。
そっとドアを開けると、そこに立っていたのは亜麻色の長い髪を垂らし、わずかに俯いたフランソワーズだった。
「……遅くにごめんなさい。少し話してもいい?」
「俺は構わないが……」
ちらりと部屋の中に視線をやる。
「入るか?」
躊躇いがちにきくと、彼女は小さく頷いた。
ドアを大きく開けて、ハインリヒは彼女を迎え入れる。ふわりと甘い香りが鼻先に掠めた。
「何か飲むか?持ってくるぜ」
小さく頭を振った。
「そうか」
立ったままの彼女に椅子を勧めて、自分はさっきまで寝転んでいたベッドに座る。
フランソワーズは俯いたまま、何も言わずにそこにいた。
ハインリヒは、小さく息をつく。
「……俺に、なにか聞きたいことがあるんだろう?」
少しだけ考えて、こくりと頷いた。
それでも彼女は口を開かない。
ハインリヒも膝の上に腕を組んだまま、じっとその様子を見ていた。
亜麻色の髪が揺れる。
「……本当に帰ってしまうの?ドイツへ」
フランソワーズがちらりと部屋の隅にまとめられた荷物を見て呟いた。
「ああ」
ハインリヒが答える。
「どうしても?」
ハインリヒは苦く笑う。
「俺がなぜ帰るのか、ききたいのか?」
彼女は何も答えない。
「……そうだな」
ハインリヒが吐き出すように言った。
「あそこが俺の国だからだ……たとえ、いい思い出がなくてもな」
「……自分の国……」
「ああ、自分の国だ。もう、そこは俺の居場所じゃないかもしれない。……いや多分、もう、俺の居場所は無いんだろう。……俺がどれだけ焦がれたとしても……。それを確認しにいくのかもしれないな……」
フランソワーズの青い瞳がこちらを見ていた。
「ここにいるのは気持ちがいい」
呟くように言ってみる。
「まだ全員と出会ってから、さほど時間は経っていない。…ああ、フランソワーズとジェットとはもう結構なつきあいになるがな」
唇の端を少しあげて笑ってみせる。
フランソワーズも少しだけ笑みを浮かべた。
「だけど、仲間だ。一緒に死地から戻った。……いや戻ったというよりは新しく生まれたのか?……どっちでもいいさ、とにかく俺たちは仲間だ」
フランソワーズの瞳が揺れる。
「だからきっとここが、フランソワーズやジョーや博士がいるここが、俺たちの帰ってくる場所なんだろう」
「……」
「だけど、確かめずにはいられないんだ。あの国に、俺の居場所はもうないのか?俺たちが以前と同じようにとはいかなくても、普通に生きることはできないのか。俺は人間じゃないのか……ってな」
小さく息をついた。
「命をかけてまで逃げようとしていた国なのにな」
自嘲気味に笑う。
「……帰りたいわけではないんだ。あそこにはもう、ヒルダはいない」
フランソワーズがはっとしたようにハインリヒを見た。
「俺はヒルダと国境を越えると決めたとき、すべてを捨てた。ヒルダ以外の何もかもを捨てて、お互いだけがそこにいればそれでいいと思っていた……亡命しようとしたのは、ヒルダと幸せになるためだった。失敗するかもしれないと俺たちは二人とも覚悟していた。だけど、失敗したら死ぬのは一緒だと、そう思っていた……。それなのに……俺だけ生き残ってしまった。……こんな体になってな」
ハインリヒは、自分の足下を見つめ言葉を続ける。
「こんな体になってでもヒルダに生きていて欲しかったのか、それともこんな面倒ごとを背負い込ませなくてすんでよかったと思ったのか、それすらももうわからなくなった。だから俺は戻るんだ。自分のいた国へ」
「ハインリヒ……」
「まだ俺は、ヒルダを亡くしてしまったことを信じられない。……わかっているし、絶望もした。だが……結果的にヒルダを殺してしまった俺が彼女に許されるはずもないが、もう一度確認したいんだ。ヒルダといた時間を……」
「……ごめんなさい」
フランソワーズが小さく言って、ハインリヒの銀色の髪に触れる。
ハインリヒはその両手で顔を覆った。
「一人きりで逝かせてしまった」
呻くように呟く。
「……俺はヒルダに謝ることはできない。そんな資格はないんだ」
自分がこんなことを、まだ少女とも呼べるようなフランソワーズに話していることが意外だ、と頭のどこかで妙に冷静に考えた。
そして、自分がこんな風にヒルダのことを想っていたことも。
ずっとヒルダには恨まれているだろうと、俺がそこへ戻ったところで何の意味もないだろうと思っていたはずだった。
俺がヒルダに弔いの花を手向けることなどしてはいけないことだと思っていた。
ヒルダを殺してしまったのは、自分だから。
「そんなことはないわ」
かすかな声がした。
「ヒルダさんだって……きっとハインリヒ、あなたのことを心配していたはず……ただ一人、こちらに残してしまったあなたのことを」
フランソワーズの白い手のひらが、顔を覆ったままのハインリヒの髪を撫でた。
「私がこんなことを想像するのもおこがましいけれど、きっとあなたの大切にしていた人なら、きっとそう思う……そんな気がするの」
ハインリヒが覆った手の中から、少しだけ視線を上げてほっそりとしたフランソワーズの姿を見る。
自分の愛したヒルダとこの目の前のフランソワーズとは姿も声も似てはいないのに、なぜか時々その面影を探してしまう。
あの頃、自分のそばにいた女性はヒルダだけだった。
自分を気遣ってくれる優しさもあたたかな手のぬくもりも、全く違うのに彼女の中にまでヒルダを求めてしまう。
「絶対に守ると決めて走り出したのに……俺は何もできずに死なせてしまった。国境を越えようだなんて思わなかったら……いや、あとちょっとで抜けられたはずなのに。すべてを覚悟の上で走ったはずなのに……情けないな。ふとしたときに、そんな後悔のような気持ちがこみ上げてくるときもある」
ハインリヒはすべてを払拭するように小さく頭を振った。
「だから、俺は君には何も言えない」
フランソワーズがこくりと頷いた。
「ヒルダを亡くして、帰る意味もないと思う。でも帰らなくてはと言う気持ちにもなる。……もう一度あの場所に立たなければ、と」
ハインリヒが顔を上げた。
フランソワーズの青い瞳がまっすぐに自分を見ていた。
その瞳から逃げるように眼をそらし、窓の外、遠い空を見上げる。
星の瞬く空は高く、澄んだ濃い色をさらに深くしていた。
「君は、君のしたいようにすればいいんだ……俺は国に帰ることを選んだ。それだけのことだよ」
ハインリヒは、視線をフランソワーズに戻した。
フランソワーズはハインリヒの髪から手を下し、静かに俯いた。
「フランソワーズ」
小さく首を振る。
「……どうしたらいいのか、わからないの」
かすれた小さな声が、ハインリヒの耳に届く。
「このまま、この体を持ったまま、帰ることが怖いの。もうどうやったって、元の私には戻れない。ただ踊っていたかったあの頃には戻れないのよ」
「フランソワーズ……」
「……あのころと同じように、あの街を歩いて、お兄ちゃんに会うことなんて、できない。私はもう、お兄ちゃんの知っている私じゃなくなってしまったもの……。だから……」
「馬鹿なことをいうな、フランソワーズ」
そう言ったきり、ハインリヒも口を閉ざす。
痛いほどの静けさが部屋を満たし、その中にハインリヒの吐息だけが響いた。
「フランソワーズは、本当はここに残ると決めているんだろう?」
少し躊躇った後、彼女は小さく頷いた。
「君は強いよ」
「どうして?……私は……パリに戻るのが怖いの。あなたが言ったように、ここはもう私のいる場所ではないと目の前に突きつけられるのが怖くて、だから戻ることができないの」
フランソワーズが膝の上に置いた自分の手元を見つめて呟いた。
ハインリヒは、その肩にそっと手を置いた。
「君が支えてやってくれ」
ハインリヒが小さく言う。
「君はジョーについていてやってくれ。……ジョーが博士を憎んでしまわないように」
フランソワーズははっとした様に顔を上げ、そしてすぐに俯いた。
「ジョーはそんなことを思ったこともないだろう。あいつにとって、博士は最初から味方だった。だけど、いつ俺達みたいに……」
「憎んでなんか、いないわ」
フランソワーズがその言葉を遮る。
「ああ、オレだって。今は、な」
ハインリヒも頷いた。
「あいつには考える時間がなかった。だからそんな方に気持ちが向いてしまわない様に、君がついていてやってくれ」
フランソワーズがきゅっと唇を引き結んでハインリヒを見る。
「俺達には…絶望する時間が長すぎた。ナンバーが若いのも考え物だな」
皮肉めいた笑みを浮かべる。
「ジェットだって、イワンだって…一瞬だけでもそのことを考えなかったことはないだろうさ。…イワンはギルモア博士に対する気持ちではないかもしれないが……それはそれで複雑だ」
フランソワーズがこくりと頷いた。
自分だって同じだった。
最初は何が起こったのかわからなくて、ひどく怖かった。
とにかく帰りたかった。その想いだけでどうにか生き延びた。
そして、生き延びた命を削られるたびに今度は死にたいと思った。こんな思いをするくらいなら、いっそのこと……。
何度も事故に見せかけて死のうと思った。
そのたび、博士は自分たちの身体を治す。
どうして死なせてくれないの!私たちは実験動物じゃない。
そう思っていても、どうすることも出来なかった。
……そして、ギルモア博士たちを恨んで、憎んだ。
こんなにも醜い感情が自分の中にもあったのだと、その時初めて知った。
次に仲間が増えると、それは哀しいことだとわかっていても仲間に縋ることしかできなかった。
もう戻ることはできない。
ただ、消えてしまいたい……。
そんな想いでいっぱいだった。彼が来るまでは。
――そして、ジョーと出会った。
今度は死ぬのが怖くなった。
死なないために、未来を取り戻すために戦わなくてはいけないと思った。
ジョーがそう思わせてくれた。
それは今もずっと変わらない。
「君に何もかも背負わせてしまうことは心苦しいけれど……博士のことも頼む」
フランソワーズの瞳が色を濃くする。
「……ええ。大丈夫。博士もイワンも、ジョーも、私が守るから」
ハインリヒが笑みを浮かべた。
いつもの皮肉めいたものではなく、とても優しい今までに見たことのないような笑みだった。
「やっぱり君は強いな…。頼もしいよ」
「私はあなたたちの仲間よ?強くならなくちゃ、もっともっと」
「大丈夫だ。君のことは、ジョーが守る。…君はジョーが大切だろう?」
ふいに掛けられた問いに、フランソワーズの頬がふわりと色づく。
「そ…そんなこと……」
ハインリヒが意地悪く笑った。
「ま、いいさ。もう休んだほうがいい。悪かったな。まとまりのない話をきかせてしまって」
「いいえ、話を聞きたいと言ったのは私の方。私こそ、ごめんなさい。あなたにとって大切なことを……辛いことも話させてしまった」
ハインリヒは唇の端をあげて笑った。
「じゃあ、これは秘密にしといてくれ」
フランソワーズも同じように笑う。
「……それから、おせっかいかもしれないが……」
言葉を切って彼女を見た。
「君の気持ちが落ち着いたら、君の兄さんにだけは連絡をした方がいい」
「……」
フワンソワーズがきゅっと唇を噛んだのが分かった。
「ありがとう。ハインリヒ」
「おやすみ、フランソワーズ」
フランソワーズが、そっとハインリヒの頬に口づけて、おやすみなさいと呟いた。
そして、静かに部屋から出て行った。
ほのかな彼女の香りだけが部屋の中に残った。
すでに遠くなってしまった記憶のヒルダの姿を心の中に探した。
——俺を許してくれとは言わない。ただ、もう一度君に会いたい。ヒルダ……。思い出の中だけでも。
■■■□
翌日からはいろいろなことが大急ぎに進められた。
ジェットは日本で「行っておきたいところ」を細かくチェックし、ピュンマもそれに乗ってどうせなら少し遠出を…などとこそこそ話し合っていた。
張々湖を中心とした他のメンバーたちは、最初にここを発つハインリヒたちの帰国前に小さなパーティを、と慌ただしく準備をしていた。
そんな中で大量のメモを渡されたジョーとフランソワーズは二人で、買い出しに出かけた。
山ほどの食材を仕入れ、仲間たちへのささやかな餞別も見付けて、気付けばあたりはもう暗くなっていた。
なのに足下に影が出来るほど明るい。
駐車場から空を見上げれば大きな丸い月が輝いて、青白い光で世界を満たしていた。
「ジョー、少しだけ遠回りして帰らない?」
そう誘ったのはフランソワーズだった。
ジョーはただ頷いて、車のエンジンをかけた。
フロントガラスから見える月は皓々と輝いていて、見慣れたはずの景色はなんだかいつもと違って見える。
木も、道も、道路も、青く淡く輝くベールを纏っているかのようだ。
ジョーの運転する車は、いつもとは違う方向へ曲がって滑るように走り抜け、その少し先にある小さな公園でようやく停止した。
昼間は子どもたちや多くの人で賑わっているだろう公園も、今はもう人影もなく街灯がぼんやりと散りはじめの桜が浮かび上がらせていた。
ジョーが目線でフランソワーズを誘い、そちらへと歩みを進める。
「綺麗だな」
思わず小さく呟くと、フランソワーズも同じように微笑んだ。
「本当……綺麗……」
桜の木の下に潜り込むと、はらはらと舞う花びらを見つめる。
「もう桜も終わりだね」
「そうなのね。こんな風に綺麗に散る花だなんて、知らなかった」
「……桜は綺麗で、少し寂しいね」
「え?」
「なんとなく、別れを連想させるから」
フランソワーズがその言葉に瞳を反らし、小さな手のひらを差し出して花びらを追った。
ふわりと長い髪が目の前を掠める。
ただそこに立つジョーの前でほっそりとした背中が踊るように動いて、伸ばされた白い腕も、肌も、髪も、その薄紅の色の中に溶け込んでしまいそうに儚く見えた。
——まただ。
この前だって、星空の中に消えてしまいそうな彼女を僕は黙って見ていた。
手を伸ばせば届くところにいるはずなのに。
「ジョー、あのね……」
フランソワーズが背を向けたまま、小さな声でそう言葉を発する。
どきりと心臓が跳ねる。
次の瞬間、ジョーはフランソワーズの腕をしっかりと掴んでいた。
驚いたように瞳を見開いて彼女が振り返った。
跳ねた髪がジョーの腕を弾く。
そのまま強く引き寄せると、フランソワーズの華奢な体はジョーの胸へとぴたりと重なった。
「ジョ、ジョー……?」
狼狽した彼女の声に答える代わりに強く抱きしめた。
亜麻色の髪の中で、白いはずのフランソワーズの耳が桜よりももっと濃く色づいていた。
——ずっと、こんな風に触れてみたかった。
フランソワーズの暖かさと、ふわりと立ち上る甘い香り。
自分のすぐそばで感じる吐息に、胸が高鳴った。
そのまま少しだけ身を固くしてじっとジョーの腕の中にいるフランソワーズが、とても可愛く愛しく思える。
こんな風に触れてはいけないとずっとそう思っていたはずなのに、触れてしまったらもう……。
フランソワーズの背中に回した手に力がこもる。
「フランソワーズ……君も、いなくなってしまうの?」
掠れるほどの小さな声でジョーは尋ねた。
あれだけずっと胸の中で渦巻いていたものを必死で押し止めていたはずなのに、こんなにもあっけなくするりと姿を現してしまう。
フランソワーズがなんと言っても自分は平気な顔をしてそれを受け入れよう、そう思っていたはずなのに。
腕の中のフランソワーズが小さく身じろぎした。
それでもジョーは、彼女の体を離すことはできない。
フランソワーズも、ジョーの胸に額をつけたまま小さな声で呟く。
「……この前は、変なことを言ってごめんなさい」
自分の胸に置かれた彼女の手のひらが、なぜだかとても熱く感じる。
「私が自分で決めなければいけないことなのに、ジョーに甘えてしまったの」
彼の胸に顔を埋めたままのフランソワーズがそのままの姿勢で言った。
「私ね……パリに帰るのが怖かった」
「……うん」
「ジョーが、もし行かないでって言ってくれたら、その言葉に縋って、ごまかして、知らん顔して、ここにいようと思った」
心臓が大きく音を立てていた。
「こんな体にされる前、パリは私がそこにいて当たり前の場所だった。こんなに大切だったなんて、これっぽっちも気が付かなかったけれど、私にとって特別の場所だったわ。家族と暮らして、バレエのレッスンに通って……それがなくなってしまうなんて、考えたこともなかった」
ジョーは小さく頷く。
「……それを全部取り上げられて、自分がどれだけ幸せだったのか、分かった気がしたわ……でも、それだけじゃないの」
フランソワーズが呟くように言った。
「今まで知ろうとしなかったことをたくさん見て来た。私にしかできないこともたくさんできたし、自分には出来るはずがないと思ったこともやってのけることもできた。命の大切さも、それがどれだけ脆いものなのかも、たくさん知ったわ。そして……みんなとも出会えた」
囁くような小さな声が、かすかに震えていた。
「……踊っていたかったわ。ただひたすらに。私にはそれがすべてだと思ってた」
「……うん」
「……あそこはもう私のいる場所ではないと、思い知らされる気がして……怖いの。お兄ちゃんに会うことも……もう踊れないのだと思うことも」
「フランソワーズ」
ざざと風が吹いて、淡い色の花びらが巻き上げられる。
それと一緒にジョーの腕の中にあった亜麻色の髪もふわりと踊った。
フランソワーズが顔を上げる。
今までに見たことのないほど近くで、彼女の瞳が瞬いた。
いつもよりも色を濃くして揺らめいている。
「フランソワーズ」
もう一度名を呼ぶ。
「……ジョー」
青く澄んだ瞳からぽろりと一粒、雫が転がる。
「……僕は……」
フランソワーズがまっすぐに自分を見ていた。
「僕には『パリが君のいる場所ではない』なんて思えない。……今だってきっと君のお兄さんは心配してるだろうし君を大事にしてくれるだろう。それに君は必ず踊ることを忘れられない。……だから、君は君のいた場所へ。もう僕やみんなのことや、サイボーグだなんてことを全部記憶の奥底にしまいこんで、今までのように暮らしてくれたらいい……きっとそうできる。そう、思ってる」
フランソワーズが息を飲むのが分かった。
「……ずっとそう言わなくちゃって思っていた。でも……」
ジョーは言葉を切る。
「でも……僕は、この手を離せない。……君に行かないでって言ってはいけないと思っていたけど、やっぱり無理だ。フランソワーズ」
フランソワーズの瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
こぼれ落ちる雫を思わず手のひらで拭い、なめらかな頬を撫でる。
「まだ君がパリに帰れないというのなら」
きっと頼りない声だと自分で思った。
「もう少しだけでいいんだ。僕と、ここに……」
抱きしめた腕の中、フランソワーズがゆるやかに視線を上げる。
そして小さく頷いた。
それを確かめたジョーの瞳も、憂いを閉じ込めたまま少しだけ潤んでいた。
自分を見つめる青い瞳は透き通るほど美しくて、長い睫毛に少しだけ残った涙がより一層その青を引き立てていた。
——綺麗だな、と心の中で思う。
それと同時に、うれしいような、でもどこかすこし哀しいような、切ないような、けれど自然と笑みが浮かんでしまうような、今までに感じたことのない気持ちが胸の奥底からちりちりとわき起こる。
フランソワーズの青い瞳の輝きも、凛とした佇まいも、どこか踊るようなきれいな仕草も、どれもがジョーの心の深くにゆっくりと積もって行って、彼女を形作るすべてが大切だと思えた。
そして今初めて見る、白い肌の中で淡く色づいた頬や、青白い月明かりに照らされた髪や、ふわりと漂う甘い香りに心のさらにその奥をくすぐられる。
ジョーはすこしだけ口元に笑みを浮かべて、そっとフランソワーズのつややかな唇に自分の唇を重ねた。
初めて触れた彼女の唇はしっとりとしてやわらかで、ほのかなぬくもりに溢れていた。
そして、自分のなにかの欠けた心を浮き立たせてくれる。
触れたところから彼女の優しさが自分にも流れ込んでくる気がして、なおさらそのぬくもりを感じていたかった。
——その優しい暖かさに、しばし時を忘れた。
また花びらを伴った風に髪を煽られて、はっと我に返る。
「…ご……ごめん」
フランソワーズは、また頬と耳とを赤く染めて俯いたまま、小さくかぶりを振った。
その姿がとても愛しくて、ぎゅっと強く抱きしめる。
「……僕は、君が好き…だ。フランソワーズ」
とても彼女の顔をまともに見ることができなくて、耳元で囁くように言った。
きっと今の自分も彼女と同じくらい赤く染まってしまっているだろう。
こんな風に触れるつもりじゃなかったのに。
本当だったら、自分なんかが触れてはいけない人。だったら、もっともっと大切にして……そう思っていたのに。
でももう手放すことなんて、できそうにない。
「ずっと一人で大丈夫だと思っていた……。でも、君のことを知れば知るほど、その……好きになって」
どうしても語尾が小さくなってしまう。
「そうしたら、今度は一人でいるのが、少しだけ怖くなって……あの、だから……」
「君がいてくれてよかった」
そして少しだけ躊躇って、ジョーはもう一度唇を開く。
「君がここにいると頷いてくれて…よかった。……本当は、ちょっとだけみんなが羨ましかったんだ」
フランソワーズがそっと顔を上げた。
ちゃんと自分は笑えているだろうか。
「……僕には帰るところなんてない。どこにだって行けて、どこにも行くことができないんだ」
自分が思っているよりも、ずっと小さく、ずっと掠れた声だった。
「ジョー……」
フランソワーズの瞳が揺れた。
「私がここにいる。ここにいるわ、ジョー」
胸に置かれていた白い手がそっと背中へまわって、ゆるく抱いてくれる。
「……ありがとう、フランソワーズ」
「……私も、あなたのことが大切。……誰よりもあなたのことが、好き」
きっとそんな風に思っていてくれる……そう信じていた。
でも、それが言葉になって自分に届くと、じんわりと染み込んで胸があたたかくなる。
「だから、私があなたを守るの」
フランソワーズの優しくて強い声がはっきりと告げた。
それがとてもうれしくて、同じように彼女に告げる。
「僕もだ。君のことは僕が必ず守る。だから……」
ジョーがフランソワーズの額に、自分の額をつけた。
長い前髪が、ジョーの瞳を覆い隠す。
「もう少しだけ、一緒にいよう。フランソワーズ」
桜の花びらがはらはらと舞い、彼女の髪を飾る。
ジョーがもう一度、そっとフランソワーズの唇に触れた。
ざざと風が渡り、淡い花の付いた枝が揺れる。
――どうか、あと少しだけでいいから、このままで……
青白い月の光が揺れた花と花びらの間から落ちて、静かに二人の重なった影を足下につくっていた。
The End
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