日差しのやわらかな午後。
あけたままの車の窓から吹きこんでくる風は暖かく、緑のにおいを含んでいる。
見上げると空は雲一つなく、その中に新緑の色が鮮やかだった。
「風は気持ちいいし、天気もいい。はぁ、こんな日に、お前と2人でドライブじゃなぁ」
助手席の窓から顔を出して、ジェットがぼやいた。
風が、ジェットの髪を後ろへと吹き流して行く。
「どうせドライブするなら、隣はフランソワーズの方がいいよなぁ」
「ジェット!」
「お前だってそう思ってんだろ。そのくらい言わせろよ」
「仕方ないだろ。ジェットと僕しかいなかったんだから」
「わーかってるよ」
「ちゃんとシートベルトもしろよ」
「………るせえなぁ。お前って変なところ、カタいよな。フランソワーズも苦労するぜ」
それでもジェットは素直に、かちりという小さな音をさせてシートベルトをしめる。
ジョーの運転する車がゆっくりと交差点を左に曲がると、そこはハナミズキの並木道だった。
白い花の樹と、淡い紅色の花の樹が交互に並び、その花が風に揺れていた。
その根本には、色とりどりのツツジの花が咲き乱れている。
今年は花が早い。
とうに散ってしまった桜の代わりに、新しい季節を彩っていた。
この近くに学校があるのだろうか。
まだ着慣れないらしいセーラー服姿の女の子たちが大勢、その並木道を歩いていた。
「へえ」
ジェットが窓から頭を出したまま、そんな女の子の姿を見ていた。
「かわいらしいもんだな。高校生かな」
「うん、多分そうだろうね。確かこの坂の上には高校があったはずだよ」
「ふうん」
ジョーの前で信号が変わる。
ゆっくりと車を停車させると、二人の目の前を高校生たちが横断していく。
そんな学生たちを見て、ジョーは、ふと彼女のことを思った。
フランソワーズの、このくらいの年の頃ってどんな女の子だったんだろう。
バレエに情熱を傾けた、可愛い女の子だったんだろうな。
どんな学校に通っていたんだろう。フランスでもこんな風に制服を来て通っていたんだろうか。
ぼんやりと思い浮かべる。
出会った頃の彼女の雰囲気が、一番その頃に近いのかもしれない。
年齢的にも、その容姿も。
ただ一つ、その表情を除けば。
横断歩道をわたっていく女の子たちは笑いさざめいて、一様に明るい表情を浮かべている。
どんなことでも楽しいのだろう。
口々に華やかな声を上げて歩いていく。
───出会った頃の彼女は、そうではなかった。
いつも悲しい表情をしていた。厳しい表情をしていた。
あの状況なのだ、それは当たり前のことだったけれど。
そんな風に彼女のことを思う自分ですら、あの頃の自分の顔を思い出したくはない。
多分、自分が思っているよりもずっと、暗い表情だっただろうから。
あの少女たちのように笑っているのを見たのは、出会ってからどのくらいたってからのことだったか?
どのくらいの間、笑うことなく過ごしていたのだろう?
自分の知らない時間が、なんだか歯がゆい。
女の子の何人かが、横断歩道を渡りながら車の方を振り返っていく。
ぼんやりとしたまま、ジョーがちらりと視線をそちらに向けると、その少女たちは前にいた少女に声をかけ、そしてその隣の少女に声をかけ、声をかけられた少女たちが、つぎつぎに自分たちの方を振り返っていた。
え?と思う間もなく、結局そこにいるほとんどの女子高生からの注目を浴びることになっている。
中にはこそこそと何かを話しながら、悲鳴に似た声を上げて全員で振り返る集団までいた。
そんな中で、ジョーは首をすくめた。
なんだか動物園の動物にでもなったような気分だ。
───早く信号が変わらないかな。落ち着かないよ。だいたい、なんでみんな僕らの方を見てるんだよ。
どこに目を向けても少女たちの好奇に満ちた瞳が待っていた。
視線をさまよわせたジョーとは逆に、ジェットは少女たちに向かってひらひらと手を振っている。
また何人かが声を上げ、停車中の車のまわりにはちょっとした人だかりができていた。
「なになに?どうしたの?」
「わかんない。だれか車に乗ってるみたいよ」
「え〜?」
無責任な声がジョーの耳にも入ってくる。
「お、おい、やめろよ。ジェット」
「なんで?いいじゃねえか。かわいい女の子たちだし、俺たちはどうせもう行くんだしよ」
少女たちの視線をいっこうに気にしないどころか、喜んでいる節のあるジェットを、ジョーは恨みがましく睨んだ。
その時、信号が赤から青へと変わった。その瞬間、ジョーは勢いよくアクセルを踏み込む。
すべりぎみに車が飛び出した。
その後ろから、また歓声とも取れる声が追いかけてきたが、すぐに遠ざかっていく。
「あっぶねえなぁ。ひいちまったらどうする気だよ」
「大丈夫だよ、ちゃんと確認してる」
どこかほっとしたような表情のジョーを、ジェットが笑った。
「ふうん……なぁジョー」
「え?」
「お前、さっき、フランソワーズの15、6の頃を考えてただろ」
「な…なんで?」
ぱっと赤くなったジョーを見て、ジェットはにやりと笑った。
「お前の考えそうなことなんて、お見通しなんだよ」
ぶつぶつと何事かをつぶやくジョーを助手席からつついた。
「で?どうなんだよ。あの頃のフランソワーズ。可愛かったんだろうなぁ」
「え?し、知らないよ」
「知らない?なんだよ?写真の一枚も見たことないのかよ?」
「……そういわれてみれば……ない」
ジェットが呆れたように、ジョーを見た。
「そういうジェットは見たこと、あるのか?」
少し拗ねたようにジョーがきいた。
「ふふん、あるって言ったらどうすんだよ」
ジョーがハンドルを握ったまま、ジェットを睨んだ。
「怖い顔すんなって。オレもねえよ……フランソワーズはオレやお前と違って、ちゃんとした家に育った奴だ。兄貴もいる。写真の一枚も残ってねえってことはないとは、思うんだけどな」
ジェットは外を眺めたまま、小さく言った。
「お前、フランソワーズにガキの頃の話、したことあるか?」
「……少しはね」
「そっか……オレはあの頃のことなんて、思い出してわざわざ話すようなことは、あんまりねえな」
「………それは僕も同じさ」
ジェットの赤い髪が、風に吹かれてなびいている。
しばらくの間、遠くの空を見上げ、ぽつりとつぶやいた。
「ま、お前が全部を話せねえように、フランソワーズにも話したくないこともあるかもしれないしな」
ジョーは黙ったまま、まっすぐに前を向いていた。
彼女の笑顔が、自分に力を与えてくれると気づいたのはいつだっただろう?
あまりいい思い出ばかりではない自分のことを、いつの間にかすんなりと話すことができていたのは?
いつでもそばにいてくれて、いつでも自分の話を聞いてくれた。
自分のことを、理解してくれようとした。
そんな彼女の、幸せだった頃の話を聞いたことがないわけじゃなかった。
彼女の兄の話、バレエのこと、パリでの生活、どれも少しづつどこかで聞いている。
懐かしそうに話す彼女は、なんだかかわいらしかった。
でも……。
そう考えて、ジョーは一つ頭を振った。
彼女の両親の話は、あまり聞いたことがないような気がする。
フランソワーズを慈しんでくれた、お父さんやお母さんのこと。
小さな子供だった頃のこと。
あの少女たちのような、幸せであっただろう時のこと。
そこで、ふと思い当たった。
───もしかして、それは僕のせい?
僕が両親を知らず、明るいとはいえない過去を持っているから?
仲間たちも、それなりの傷を抱えているから?
だから、君はなにも語ることができなかったのか?
僕らのために。
「僕は……いや、僕らはフランソワーズに甘えてるのかもしれない」
ジェットがちらりとジョーを見た。
「……そうだな」
「僕は、フランソワーズに無理をさせていたんじゃないかって……」
ジェットがジョーの言葉を遮る。
「フランソワーズが、俺たちのために幸せな頃の記憶を封じ込めちまったとは限らないぜ」
「え?」
「……幸せだったから…話したくないのかもしれない。彼女自身が思い出したくないのかもしれない…ちがうか?」
「………」
「思い出しちまったら、今がつらくなる。そりゃ、今は今で幸せかもしれない。でも……そういう種類のもんじゃねえだろ」
ジェットが伺うように、ジョーを見た。
「でも……」
さらに何かを言い募ろうとするジョーを、ジェットは指で制した。
「……ジョー。じゃあ、お前は思ったことないのかよ?………もしも、サイボーグなんてものになっていなかったら……ってさ」
ジョーは答えなかった。ジェットが小さく息をつく。
「オレは思うぜ。オレは今だって楽しく生きてる。これはこれで幸せだと思うときもあるさ。だけど……どうしても考えちまう。もしも、あの時、やつらの誘いに乗っていなければ……ってな。バカだったのはオレだ。それも分かってる。だからこそ、後悔するんだろ。まあ、そんなことをうだうだ考えてるのは、オレの性分じゃねえからな。滅多に思い出したりしねえけどよ」
「……うん」
ジョーはまっすぐ前を向いたまま答えた。
「だけど、フランソワーズは違うだろ?オレなんかより、もっと理不尽だ。……それまでが幸せだったら、余計にな」
緑の匂いを含んだ風が、車の中を通り抜ける。
「ジェットの……言う通りかもしれない」
ジョーがぽつりとつぶやいた。
「だけど……やっぱりそうじゃないって思いたいんだ。僕は少しだけど、フランソワーズにいろいろな話を聞いた。バレエのレッスンのこととか、先生のこととか、お兄さんのこと」
ジェットがにやりと笑う。
「どれも、本当に楽しそうで、ただ、懐かしく思い出しているように見えた。その思い出をとっても大事にしてるように、僕には見えた。……だから……」
ジョーは、言葉を飲み込んだ。
───きっと、今は何も言わないんだ。僕のために。
そのくらいは、自惚れてもいいよね?フランソワーズ。
「お前がそう思うんなら、きっとそうなんだろう。フランソワーズは、俺たちみたいにひねくれちゃいないしな」
ジョーが黙ったままジェットの方を見ると、ジェットはもう窓の外に視線を向けていた。
「……うん、そうだね」
しばらくの間、二人はそのままだった。
耳元を風がかすめていく。
どこからかふわりと漂う花の香りに、ますます春を感じた。
そして、ふと、ジョーはあることに気がついた。
横目にジェットを見て、小さな声できいてみる。
「でも……なんで僕の言おうと思ったこと、分かったんだい?ジェット?」
「言ったろ、お前の考えそうなことなんて、このオレさまはお見通しなんだよ!」
ジェットが外をむいたまま、鼻歌を歌っている。
その小さな声は、風に乗って車の外へと流れていった。
家まで、もうすぐ。
帰ったら一番にきいてみよう。
『16歳の君は、どんな女の子だった?』
君は答えてくれるだろうか。
助手席のジェットが、ちらりとこちらを見た。
すぐに外へと視線を戻す。
なんだかにやりと笑っていたような、そんな気がした。
The End
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